変わらないもの、変わらずにいること

学生の時分、親によく連れられた中華料理屋が閉店していた。客が居なかったわけではなく、いつ見かけても大体満席で、何やら大将の身体が悪くなったことによる閉店のようだ。アラフォーにもなると、昔に見かけた店や建物が閉店や取り壊しになることは別に珍しくはない。だが何度そのような光景を見かけても、思い出が一つ減るような感覚は消えない。

今日の平日、有給休暇をとれる恵まれた職場、私は同じく昔よく連れられた喫茶店に行ってみることにした。幸いなことに、20年以上前から何も変わらぬ外観で喫茶店はあった。

コーヒー豆を挽くための手動の臼、仰々しいロースターに、サイフォン式のコーヒーメーカー。古びているにも関わらず、艶のあるカウンターテーブル、革張のソファ。

学生の時分には何一つ価値に気づいていなかったそれらは、20年越しに私を感動させた。変化が求められ、変化することが是とされる性急な世の中で、20年以上変わらぬ、いや正確にはありとあらゆる劣化や外力に抗い続けているその姿で。

私は頼んだ、20年前には頼まなかったコーヒーを。
20年前にも頼んだクソ甘ったるいクリームを乗せたトーストと一緒に。

コーヒーの味は残念ながら今でもよくわからない。
胃もたれしそうなほどのクリームとコーヒーの相性は最高だった。

ほかの客は20年前とあまり変わらないように見えた。
おじいちゃんやおばあちゃんが目を細めながら新聞片手にコーヒーを飲む。

この片田舎の喫茶店にもノートパソコンで仕事をする男がいた。
難しい言葉を標準語で電話越しに話していた。サンドウィッチ片手に。

大体皆が常連なのだろう。「いつもの」と注文していた。
私は20年前の「いつもの」がここにあることで満足していた。

いつかあの店も無くなるのだろう。だが私の記憶から無くなることはない。すべての記憶は無くならない。それは普段思い出さないだけで、ふとした幸運によって蓋を開ければ蘇る。このような幸運にあと何度出会えるかは知らない。変わる世の中で、変わらないことの尊さに。例えば私が変わってしまったそのあとでも、気付くことが出来るのだろうか。変えたくない思いを、この文として綴る。

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