まず行動しろという扇動者と、学者へのヘイト

挑戦や行動を促す人間の最近の傾向として、失敗した時のことは語らないという風潮がある。キラキラ輝く成功者の陰には無数の負け組がいるのは世の常であり、All winな世界というものはいまだかつて到来していないはずだ。スタートアップで世界を切り開くだの、Youtuberになれば億万長者だの、FIREすれば人生バラ色だの、例を挙げれば暇がないほどに見かける。

マクロ経済的な視点からすれば、挑戦する人間がいたほうがいい。成功しようが失敗しようが、何かしらの動きで金や人が動くのが大事だ。また人生経験的な意味でも、基本的には座して死ぬよりは挑戦したほうが後悔は少ないだろう。「やらぬ後悔よりやる後悔」ともいう。だから行動すること自体に反対なのではない。私が引っかかるのは、やたらと人に「行動せよ」と促す人間が多いということだ。

全然関係ない話かもしれないが、私は部落差別の認知がある地域に住んでいた。なので、一部の輩が「この本を買えば部落の人たちが救われます。ぜひ買ってください」「買わないということはあなたは部落差別を見て見ぬふりをするということになります」という商売をしていたのを知っている。この部落差別商法とも言っていいものは、同じようなものでいくらでも代替可能だが、「行動しない=俺たちの敵」という構図は、最近のSNS上に限らずいろんなところで見る論法でもある。

ちょっと前だが、ツイッターデモなるものが流行っていたときもそんな風に喚いていた輩が居たように思う。まあ今はツイッターじゃないのでXデモとかになるんだろうか。Xデーみたいで響きが怖いが。行動と連帯・・・何か左巻きの人たちが好きそうな言葉は、SEALDSとかいう若者の政治集団が流行っていたときもよく見た。そんな大層なものでなくても、駅前の募金で、「報われぬ子供たちのために行動を」なんてのも聞く。

学者へのヘイトはここ十数年のトレンドだろう。「2位じゃダメなんですか」とかいうのも、それに近いように思う。まあ学者は学者側で今話題の二酸化炭素無くす君だとか、小保方だとか、大学での研究費不正利用だとか、御用学者だとか、まあいろいろやらかしてはいるので、やっぱり学者もクソと言われれば首肯せざるを得ないところもあるのだろうが、昔からやたらと「勉強ができても何の役にも立たない」なんてのは聞かされたし(まあこれは私が多少なりとも勉強ができたからだろうが)、考えることなんて意味がない、価値があるのは行動だ、という価値観がいろんなところで見受けられるように思う。

冷静に考えなくても、なぜこういう風な言説がウケがいいのか。それは単純に、「考えるやつ」が「静か」で「少数派」だからだ。殴っても殴り返されない、しかも一般的に考えるやつというのは結構社会的地位があるやつだったりする。体のいいサンドバックとして機能するわけだ。

考えても欲しい。「行動することはクソだ」というような言説を見たことがあるだろうか。私は見たことがない。辛うじて耳にするのは「考えなしに行動することはクソだ」ということくらいだろうか。これも圧倒的に耳にしないが。当たり前だが、少し考えれば行動することがクソだとは思えないだろうし、ましてや「行動すること」を十把一絡げにクソ扱いしても何も生まれないことは自明だ。もう少し考えれば、世界を便利にしているものはたくさん考えられたうえで作られたものばかりだ。私がこうやってくだらない文章を書けるのも、インターネットや電気を発明した科学者や研究者がいたからだ。そして、それを維持している技術者や職人、現場の作業員がいるからだ。

「考えることも行動の一つ」と思えるように皆がなれば、世界はもう少し平和になるに違いないのだが。

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