一年の計は元旦に無い

有るではなく無い。

変わりたければ仕事を新たにせよ、住居を新たにせよ、習慣を新たにせよとある。最も意味がないのは、決意を新たにすることだ。と誰かが言った言葉ほど、耳に痛いものはない。人は頭の中でだけ変わりたがる。今の自分は肯定に値せず、肯定すべき自分の像があっても、それに成る努力は惜しみたがる。古来より人は怠けるものであり、そのような人が変わるためには、頭の中でいくら決意を新たにしても無駄である。

つまり元旦に色々計画するだけでは何も変わりはしないし実らないということだ。

成した行為すべてが、その人の生き方そのものである。ウソをつくやつは大でも小でもウソをつくし、家族や職場で顔を変えるやつは恋人や友達にも変える。そんなものは観察していれば大体わかるのであって、人は気付いていないか、気付いた上で「大人の対応」をしているだけだ。利害の一致、金銭問題。たとえ人間性に問題があっても知らぬふりをした方が得をすることも多くある。

ネガティブ。

一年の初めにネガティブなことを書かなくてもいいとは思う。しかし私は生来ネガティブな生き物なのだ。私はいつだって最悪からスタートしたがり、最悪が実らなかったときにだけ安心を得られる生き物である。

こうして言葉で己を縛る必要はないかもしれない。もちろん縛られているつもりはないが、言葉を連ねようとする脳に任せてタイピングすると、やはり出てくるのはネガティブな言葉ばかりであるように思う。

私は嘘つきが嫌いだ。だから自分の言葉にもなるべく嘘が無いようにしたい。私がどうしても嘘をつかねばならぬ時は、嘘が現実となるように、あるいは現実を嘘めいて話すようにしている。そうでなければ嘘の強度を保てる自信がないからだ。だからバレバレの嘘をつくやつは心底嫌いだ。

一年の計をもし立てるのであれば、一年後の自分に真摯であるべきだ。吐いた言葉には責任を持ち、現実にしなければならない。さすればやはり沈黙は金であり、何一つ言わぬのが賢い。愚者ほどよく喋る。この誰でもしゃべれるSNS時代だからこそ、沈黙の尊さを人は知るべきである。会話によって発露するのは愚かであるということだけだ。

私は創作に必要なのは救いだと考えているし、さすれば私が綴る言葉にも救いがあるべきだ。だがこの1000文字程度の文章に今のところ救いはない。愚かなルサンチマンが落伍者として自分語りをしているだけだ。私自身さえ救えもしない文章を書く必要はないし、ましてや人様に見せる意味はない。

生きて三十数年、まだこの命にも脳にも意味も価値も見いだせない。いくら考えても、いや考えれば考えるほどそんなものは無いと結論付けられてしまう。この先さらに老いて、思考肉体も鈍するとすれば、さらに価値など無くなっていくに違いない。そういう意味で、一年は常に右肩下がりと言える。さすれば、出来ることは一つしかない。思考は新たに出来ないとすれば、肉体を新たにするしかない。よって、肉体を右肩下がりにしないようにしよう。体重は増やさないし、筋力も落とさない。それを計とする。いつか思考が変わるその時まで、肉体を滅ぼさないようにしよう。

要は筋トレ頑張るって話になって終わり。

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