出来ないとやりたくない

手から炎を出すとか、100mジャンプするとか、そういったことは「出来ない」

私にとっては仕事や料理や掃除は、「やりたくない」。やらなくて済むならやりたくない。まあ世の中には仕事も料理も掃除もやりたいっていう奇特な人も居るかもしれないが、やりたくない人が多いから世の中仕事が成立するし、冷凍食品はあるし、掃除機も売れる。

しかし現実では多々「仕事が出来ない」「料理が出来ない」「掃除が出来ない」と聞く。

冷静に考えるとおかしな話である。仕事に関しては多岐にわたるため、一概に言えないが、一般的な話としては、大工にいきなりSEやらPGの仕事をやらせようとしても「出来ない」だろう。ただこういう風には「仕事は出来ない」と使われることはない。大体が同業同職に対する悪口のニュアンスで、仕事が遅いだの仕事が正確でないだのというときに「出来ない」という表現でバカにされることが多い。

料理や掃除についても同じであろう。料理や掃除には便利な器具があり、マニュアルも出尽くしたどころか一般常識としてあるくらいである。こちらの「出来ない」は大体が「やりたくない」か「やっても他人を満足させる水準にならない」の意である。

そういった意味では、「出来ない」という言葉はかなり幅広く、Can notの意味からWill notの意味まで兼ねているともいえる。往々にして人は他人からの頼みを断るときに「やりたくない」ではなく「出来ない」を使う。「出来ないなら仕方ない」と言ってほしいと言わんばかりである。

私は「出来ない」と「やりたくない」を可能な限り脳内で区別するようにしている。そして、「やりたくない」は「何故やりたくないのか」を考察することと、「やりたいに変換できないか」を思考するようにしている。「出来ない」部分については明確化し、自分が出来ることとの線引きを狙う。

こうすることによって、自分の裾野が広がると同時に、自分の人生を選択している感が出るように思う。出来ないことに囲まれて暮らすのは籠の鳥、やりたくないことに溺れるのは井の中の蛙。やりたいことと出来ることを道しるべに歩いていくことこそ人なりと思う。

しかしこう思うことは簡単だが、その道を歩むのは時に茨。出来るはずと思えば身を焦がし、やりたいと囚われれば毒を飲むこともある。結局のところ、矮小な脳みそと小さな指先によって書かれた文字、思考に囚われず、その時の身体の声に耳を傾けつつ、観測する世界とうまく付き合うことが大事なのだろう。

世界を観測するのも自分、構築するのも自分、破壊するのも自分。どうせ死ねばすべてが無に帰すのならば、生きている間くらい自分から逃げずにいたいものだ。願わくば、この文章を読む未来の自分が、今の私を笑わずにいることを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?