時は加速する

プッチ神父の話ではない。

突然だがマツコデラックスの話。マツコは「1年が5日みたいなもんだった」みたいな話をしていた。5日は言い過ぎだと思うが、1年を振り返って、思い出せる日は何日あるだろうか。5日とは言わずとも、ひと月分の30日思い出せる人は少ないのではないだろうか。

私は割と思い出せるほうだ、その代わり小学生や中学生時代の情景を思い出せと言われると逆に何も思い出せない。多くの人は逆で、小学校や中学校の時の友達や出来事をつい先ほどのことのように話せる人は多いように思う。私の学生時代は暗澹たるもので、いじめにもあっていたし、当然友達も居なかった。学年が上がるたびようやく前の学年のことをリセットできると思っていたくらいだ。

高校は少しだけ思い出せる。私はこんな性格だが勉強は割とできた。そこそこの進学校に進んだ私は、勉強のことでなら人に頼られたし、人と割と自然に接することはできた。だから当時話した人々や知り合った人のことは今でも思い出せる。もっとも、同窓会とかに出席はしていないのでもう今では誰も私のことを覚えてはいないだろう。親から聞いた話だが、当時の私を知る人間は、男も女も「勉強ばかりの人間だ」と私を評していたらしい。まったくもってそのとおりであり、部活も恋愛も遊びもせず勉強だけしていたように思う。真面目だがクソつまらない奴と言われれば否定できないしする気もない。

そこそこの大学に進んだ私は、勉強と学問の違いにぶつかり頓挫する。私が出来たのは勉強だけであり学問に向いていたわけではなかった。自発的な学びを全くやってこなかった私は、今まで遊んできた経験もなかったために、学ぶことも遊ぶことも出来ないまま大学生活を過ごした。だから大学についても思い出せることはほとんどない。もっとも、最初に大学といえばテニスサークルだと思ってサークルに所属していたときの酷い思い出や、友達もいないのに留年して地獄を見たときの思い出はいくつかあるが、楽しかった思い出は全然ない。ミミズは太陽に焼かれると死ぬのだから、死ななかっただけマシだ。

自分語りが過ぎた。最初マツコの話をしようと思っただけなのに、結果自分のことばかり書いていた。私が最近覚えた言葉に「記憶は脳に存在しない」というものがある。記憶というのは常に今の脳みそが過去を振り返って再生されるものであるから、HDDのような記憶装置は脳みそに存在していないというものだ。この言葉は残酷なようだがかなりの救済を齎すように思う。多くの人は記憶を正しいものとして、記憶に縛られがちだからだ。私はどちらかといえば酷かったことを覚えがちなので、そういう意味では酷かったものはあくまで今の自分が「酷かったものとして記憶している」にしか過ぎないと思えるようになった。

このことと、一年が5日で過ぎるということを突き合わせると、人は記憶していなくても生きていけるし、都合の悪いことはいつでも忘れられるということだ。今覚えている記憶は、あくまで今の自分が、主体的に「忘れていないだけ」であって、己自身を苦しめるために何かを覚えておく必要はないということだ。

今年も年の瀬である。皆さんが良い記憶だけ来年に持ち越せますように。

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