ChatのAIの時代と生き方

以下ChatAIのことをAIと略す。AIに出来ないことはまだ多い。素人の私が考えるだけでも

・0から1を起こす思考
要は人間の入力無しに自立した思考が出来ない。ここではまだ人間との差がある。逆に言えばAIで独立して会話を始めたりプロダクトアウトするようになればもうシンギュラリティは目の前、人類の敗北というような気がする。

・責任を取ること
事あるごとに「AIはあくまでAIであり、統計的判断を下しているだけです」と断らなければならないほどの脆弱さ。まあこの点については人間も内部ロジック的に大差ないだろうが、社会は信用と責任を重視している。まだすべてをAIに任せる社会はこないだろう。

・言語外の情報処理
言語化された情報から統計的にアウトプットするだけなので、言語外の情報については感知できないし対応できない。要は五感がないので五感に応じたことは出来ないということだ。

まあAIについては議論が活発で、AIを万能のようにとらえる人も居れば、AIなんてクソという人も居る。ただ後者に関して言えば、単にAIを過小評価しているか、自分が有効活用できていないだけーそして自分自身の立場を脅かすのでAIをDisらざるを得ない特権階級に属しているーように思う。

これからまだまだAIは進化するし、出来ることは増えるだろう。ただ先ほど挙げた三点についてはすぐに出来るようにならないとは考えている。逆に言えば人間はこの3点において差別化を図らないと、AIに任せればいい時代は確実に迫ってくると思う。

ありきたりであるが、問いを立てる力。問いに答えることはAIにできても、問いを立てることは当面人間にしか出来ないだろう。そしてそのAIの答えの正否に責任を持つこと。正しかろうと間違っていようと、AIの答えにお墨付きを与えることも人間の仕事になっていくだろう。

最後にやはり肝心なのは、何を感じて何を思うかだろう。「我思う故に我有り」などと、使い古された言葉を繰り返すべき時代が来る。これからありとあらゆる創作物や情報に、AIの物が紛れ込むだろう。偽物だ本物だという議論をする必要もあるだろうが、技術や見た目では優劣がつけられないAIの物を目の当たりにしたとき、人はやはり己の感性を信じるしかない。そこでAIの物だから偽物であるというような脳死の議論をするようでは、おそらく感性は死んでいく他ないのだろう。それこそAIにとって代わればいい人間にならないためにも、己の五感を信じ鍛え続けねばならないのだろう。目の前と己の中にいる「人間」を続けるために。

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