自己評価と認知、生の認識

人はみな大体、命を、特にじぶんのそれを高く見積もる。それは生存本能によるものなのか、そういう世界だからなのかはどうでもいい。生きているだけで丸儲け。いのちを大事にしなさい。命そのものの価値が尊いというのは人類史生まれてからずっとそうだろう。戦時を除く。いや戦時だって「お前の命と引き換えに何千の命が救われる」という形で命のやりとりがされていたに違いない。

私は自分の命に価値があるとは思わない。生まれたときからいついかなる瞬間だって自分は誰かの代替品でしかない。自分という物体は非代替性を持つかもしれないが、精神性や役割についてはここにある必然はない。当然この観測をしているのは自分自身だから、観測によっては別の結論を導き出すことはできる。だから世界は回っている。

村上隆という現代芸術家がいる。こないだ気まぐれで立ち寄った本屋で、彼の特集が組まれた写真集があった。ヒロポンやマイロンサムカウボーイ、花のNFTといった「ああ、村上隆のそれだな」と思える作品群の紹介があった。

彼は昔インターネットのクズどもにも有難い話を聞かせてくれる時期があった。その時聞いた彼の話の一つで、今も覚えているのが「自分は死後の世界を創出するために作品を作っている」というものだ。要は死んだ後も自分が生きる世界のために作っているという趣旨の発言である。

実際に作品を見ただけで村上隆を認識できるのはすごいことだ。世の中にあふれる物体で、いったいどれくらいが個を認識できるだろうか。車はトヨタ製だと思うことがあっても、そのネジ一本を作ってる町の鍛冶屋の顔は浮かばない。不動産やゲーム、衣類から食料品まで、最近はブランディングの一環で作者が顔を出していることもあるが、それはいつだって代替品だ。村上隆の作品は村上隆だから価値があるのであって、他と比較されるものではない。文脈を語る上で他の作家が流用されることがあっても、作品そのものは間違いなく個の認識に基づいている。

そういう意味では、村上隆が死んだ後も「村上隆」は生き残る。すごいことだ。彼の発言を引用するならば、認識が初めて生を創るのであって、認識されない多くは生きてさえいないともいえる。これは私の思考と極めて一致している。だとしたら私が生を実感するには、彼と同じく、「私らしさ」を創出することでしか無理なのだろう。それは死ぬまで叶わないとわかっている。私はいつだって無力感と諦観と妥協に塗れて、本能によって死にながら生かされている。

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