飲み会明けの虚無

「楽しかったなあ、それに比べて今日は」ではない。

「なんでこんなに楽しくないのか、自分は人間的に劣等だからなのか」
という疑問によるものである。

上京して2か月。地元にいたころに比べたら格段に飲み会に出席している。誘われた分は皆勤である。誘う相手は相変わらず居ないが、まあそれも上記の疑問を総合的に誘発している一因であるには間違いない。それはそれとして。

昔からだが、集団の中で笑うのが苦手だ。いや、笑えないという話ではないのだが、笑うべきポイントみたいなものばかりを意識して、その笑っている自分を俯瞰してみている冷たい自分が居て、みたいな状況が苦手だ。これは飲み会に限ったわけではないのだが、普段の会社勤めでは別に楽しく振舞う必要はないので、その問題が浮上することはあまりないが、「楽しく振舞うべきである」という意識が働いて、実際みんな楽しそうである飲み会においてはこの問題が否応なしに眼前に突き付けられる。

他人は楽しそうに見えるのに、自分は楽しめていない、というような浮いた感覚はいつでもある。最近は意識的に楽しんでいる自分の仮面を、自分の正体だと思い込むようにしていたが、飲み会から自宅に帰り、床にはいると冷めた自分が囁いてくるのだ。「嘘をつくのはやめろ」と。この時間が一番ストレスフルだといっても過言ではない。そもそもこの冷めた自分はいつだってストレスフルであるが、仮面との距離があればあるほど揺り戻しも大きいようで、飲み会のような温かい場に行った後だと温度差で凍えるような気持ちになる。

昔土建屋に勤めていて、土建屋を辞めると伝えたあとに、上司のおっさんが言っていた。

「お前みたいなやつはいつか(自ら)死ぬんちゃうかって心配や」

その時は乾いた笑いで返すことしかできなかった。だが実際その言葉は15年たった今でも忘れられない。自分は一人だった時間が長すぎて、というより今もずっと一人なのだが、社会に溶け込もうとするときにどうしても無理がある。全部が嘘に見える社会で、楽しそうに振舞おうとするのは全部自分にとって嘘になる。何度も何度も適応できない自分は、自分が悪いと、何とかするべきなのは自分なのだと言い聞かせてきた。たとえそれが嘘であっても、そちら側が圧倒的な正義なのだとしたら、殉じれない自分は悪なのだと。

しかし自分が観測する限りでは、自分以外にもたくさん同じような落伍者がいるように思うのに、なぜこの東京という町はこんなに飲み会で溢れているのか、理解に苦しむのだ。そもそもこの観測が誤っていて、自分だけが落伍者なのだとしたら仕方ない。だがそうでないとしたならば、飲み会という場を維持するための必要な犠牲として、ふるまい続けるしかないのか、という感覚にもなる。人は何かに酔っぱらっていなければやっていけない。それが、自分のような落伍者を剪定した先にある境地なのだとしたら、この世はやはり地獄だ。

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