視覚で入力して言語で加工出力する


先日、ゆる言語学ラジオさんの動画を見た。
https://youtu.be/5NJ_tKtvjCs?si=mEIlOBayMeQx05Or

人間は思考のしかたのタイプによってざっくり2つに分けられるらしい。
ひとつめが言語思考。いわく、言葉で物事を考える人。
もうひとつが視覚思者。いわく、絵で物事を考える人。

へえ、面白いじゃん。
こういうのを見るともちろん自分がどちらなのか考えられずにはいられない。
でも、これって結構難しい。私はどちらにも当てはまるから。

言語思考なわたしの思考回路はこんな感じ。
こうしてブログを綴ることが苦にならない。
舞台や本や動画の感想なんてなんぼ書いてもいいもんですからね。
喋っているときに言葉が考えを追い越すことなんて日常茶飯事だ。

一方で、視覚思考なわたしもいる。
自分の思考を100%言葉に起こすことなんて不可能だ。
出来れば図とか絵とかの説明をしてほしいし、自分もそちらの表現を好む。
美術館や写真展はキャプションなしでその世界にアクセスできる。

うん、具体と抽象だなぁ。
文章を書いたり人と話したりするのも好きだけど、見えたものを見えたまま考えるのも好きだ。多分この言語思考と視覚思考というやつは二元論的なものではなくて、グラデーション的なものなのだと思う。私はちょうどその中間点に位置しているからどちらの気持ちも理解できるのだろう。

また、人を何種類かのタイプに分けるといえばこういうのもある。
https://www.cogtem.com/
こちらは人間の思考を視覚優位・言語優位・聴覚優位の三種類に分け、さらにそれぞれのタイプを2分して合計6種類のスコアを見る、というものだ。
これに当てはめると私は視覚と言語が同じくらいで、聴覚がからっきしである。

これはかなり前から自覚症状がある。
点語のリスニングテストが苦手だし、人の話をうまく処理できない。
つまり私は他人の話はよくわかんないけどめちゃめちゃしゃべる自分勝手な人間なのだ!
やっぱり私は目に見えるものとことばで世界を知覚しているらしい。

ところで、思考には前工程と後工程がある。思考の前には必ずそのきっかけとなる入力が、後にはその考えを他人に発信するための出力が存在している。後工程については必須ではないけど、ここではひとつ、思考の前後に入出力があるものとして考えてほしい。

入力にも出力にもそれぞれ視覚・言語・聴覚を用いることができる。
目に見えるものをそのまま形としてとらえる視覚。
本を読むなどで文字としてそれを加工する言語。
そして耳から入ってくる情報を司る聴覚。
グラフィックで表現する視覚。
言葉で綴るもしくは話す言語。
賞階を伴って奏でる聴覚。

上にあげたビジュアルシンカーもしくは本田式認知特性の書き口には、どうも読者に情報の入出力および加工(=情報を解釈すること)をごっちゃにさせてしまうきらいがある。しかし、入力・加工・出力それぞれで得意な方法がバラバラな可能性だって十分にあり得るのだ。たとえば動画内に出てきたディスクレシアだって、加工や出力に関しては言葉でもできます、ということだってありえるだろう。

自分はどうだろうか。

入力
視覚:とても得意。舞台観劇をするときは視覚情報がなるべく得られるよう、複数公演に渡ってさまざまな席(最前列から最後列、ド上手からドセンからド下手まですべて)に入りたい。
言語:それなりに得意。食品の原材料とか無意識で読んじゃうタイプだし、ツイッターのTLなんかは一生見てられる。
聴覚:耳聞こえてないんじゃないかっていうくらい苦手。ライブとかに行ったときは音楽を楽しむというよりもペンライトとか照明とか演出とかを見ている。あとは音の情報量が多いとキャパオーバーになるから、音がこもらない会場が好き。TDCHは神。

加工
視覚:入力で得たビジュアル的情報をそのままに解釈することができる。ただし、言語ほど上手に解釈できていない可能性が高い。
言語:入力時における聴覚がてんでだめなので、耳から入ってきた言葉をなんとか言語に直して解釈している。この聴覚による入力の補助的役割を物心ついた時からやり続けていたので言語による情報の解釈がとても発達しているように思われる。
聴覚:聴覚は入力もできなければ解釈もできない。歌の良し悪しは音痴かどうかくらいでしか判断できないのです。あと、10年近く音楽をやっていたはずなのにいまだに移動ドが理解できねーです。
多分、言語7割、視覚3割くらいで考えている。

出力
視覚:ゆる言語学ラジオでは「小さい頃は絵を描いていたのにいつしか描かなくなったよね」という話があったが、私は絵を描き続けて大人になった奇特なタイプ人間である。ちなみにパワポ作ったりするのも得意だし、学生時代にはごく稀にデザインの単発仕事をもらったりもしていた。
言語:御覧の通り、言葉で表すの大好きです。そもそもこういう「世界をどう見ているか?」という議論を見かけた時に嬉々としてツイートしたりブログを書いたりすること自体言語での出力大好きマンに決まっているのです。
聴覚:これは自分でもかなり意味不明なのですが、音楽表現は得意です。入力と加工はできないくせになぜか10年音楽をやれていたのは多分出力だけで無理矢理どうにかしていたから。
つまり、私は目で見たものを言葉によって解釈して絵やブログで吐き出したい人なのだ。

それはそうと、私は自分の考えをすべて言語化することは不可能だと思っている。イデア論よろしく、自分の中にある解釈のようなもの、入力内容を元に解釈した完全無欠の「なにか」…...それを果たして出力してよいものか、という苦悩がある。考えのすべてを言語化できる、すべきである、という主張に対してそれは傲慢であるとすら思う。

こうしていま文章を書いている時もそういった苦悩と戦っている。私は私の感じたことを私の中でとどめておくべきである、出力してしまっては間違った形で私の解釈を外向けに固定してしまうことになるから、と感じている。

一方で、誰かと意見交換するにはたとえ欠如してしまうとしても何かしらの形で出力するほかないというのもまた事実なのだ。MBTIでいうところのENTPである私が私の解釈を私の内のみにとどめておくことを許さない。

以上が動画を視聴してから考えたことの7割くらい出力した結果である。みんなはどうだろうか。色々な人の意見を聞いてみたいものだ。

p.s.
これ以上書くとマジで収がつかなくなるので本編には書かなかったが、共感覚とかはどこでどういう処理をしているんだろう、とも思う。私は音楽を脳内で映像にしたり数値が色で見えたりするのだが(めっちゃヴィジュアルで加工してる!)、この共感覚の起こりやすさに3タイプをどの工程でどの程度使えるかと関係あるかどうか、というのが気になっている。

また、ここまでバリバリ言語化しているが私はゆる言語学ラジオのお二人と違ってMBTI断について考えたりするのもめちゃめちゃ好きだ。なので、MBTIとこの世界の解釈の仕方についてもなにか相関があるのではないか、ということもやはり気になる。

こうしてどんどんいろいろ話を広げちゃうところがENTPの悪い癖ね。

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