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のんのんさま 

県境を流れる川の近くにコカのおばあちゃんは暮らしていた。
おばあちゃんは父の叔母にあたる人で私からみたら大叔母にあたる人である。頻繁に会うというよりも、たまに法事で会う着物のおばあちゃんという印象で、うちの親戚の中では物静かな印象で近寄りがたい人だった。背は小さくて腰も見た目以上に曲がっていたけれど、何というか精神が背筋を伸ばしているという感じで、静かに光る眼で見つめられると子供でもなんとなくかしこまる感じであった。
「コカ」と大人たちが呼んでいたので私も音でそう覚えたけれど、愛称なのか名前だったのか結局知らないままだ。

小学一年生のとある冬の日。私は父に連れられてコカのおばあちゃんの家を訪ねる事になった。おばあちゃんの家を訪ねるのはこの時が初めてである。
おばあちゃんが独りで暮らしていたのには理由があって、私が生まれるもっと昔に、たった一人の息子さんを不慮の事故で亡くしたからだった。
旦那さんだった人の話は聞いたことがなく、人生のほとんどを息子さんを弔うことに費やして暮らしてきたのだそうだ。亡くなった叔父さんとうちの父は従兄同士であった。

70才を超えてもずっと一人でいるおばあちゃんを、近所に暮らす親類たちが時々交代で様子を見に行くことになっていた。その日神戸から用事で近くまで来た私と父が、たまには顔を出してと頼まれた。 

おばあちゃんに会いにいくと聞いて私は緊張した。私は周りの大人達からコカのおばあちゃんは不思議な力を持っている人だと聞かされていた。
不思議を印象付けたのは、おばあちゃんがひっそり行うおまじないのようなもので、自分の前に人を座らせ、その背中に向かってお経のような文言を唱える行為だった。父や親戚達はそのことを「のんのんさま」と言っていた。

のんのんさまが行われるのは、法事のおときの行われている部屋の隅の方でひっそりとという感じであった。酔っぱらった男の親戚連中よりも、女の親戚に多く施されているような気がした。年の近い従兄弟は男の子ばかりだったから、いつか私だけおばあちゃんに呼ばれるのではないかと、私は会うたびにどきどきした。それから少し期待もしていた。
父と二人で会いにいくとなれば、私がのんのんさまをされるかもしれない。
そう思うと緊張でお腹が痛くなるほどだった。

***

おばあちゃんの家は、川沿いの道路から民家一階分の階段を降りた、湿った土地に建てられた長屋の一つだった。川のそばだから薄暗い階段のあちこちに苔が目立つ。段を降りていく途中からすっと空気が冷えるのが分かった。四軒並んだ家の前には、仕切りのない庭が伸びていた。壁に立てかけたまま赤錆びた自転車も、雨水が溜まった欠けたかめも、片方ひっくり返ったスリッパも、随分前からここに放置されているように見えた。

一番手前がコカのおばちゃんの家だった。
私は急に不安になって、玄関の前で父にどれぐらいここに居るかを訊ねた。「顔を見たら帰る。」
その返答を聞いても心細さは消えず、いま降りてきた階段を見た。
土手を上がれば川添いの道に出て駅へ行けるはずである。私は父と歩いてきた道を念のため頭に思いめぐらせた。
堤防の上にいたカラスと目が合った事。砂利道の端にたんぽぽが3つ並んで咲いていた事。白い車のうしろの席に色褪せた犬のぬいぐるみが置いてあった事。
橋は見たけど渡らなかった。でも角を何回曲がったか覚えていない。私は狼狽えた。石を落として道しるべにしたヘンゼルとグレーテルのことが頭をかすめた。

鍵は最初から開いているみたいだった。父の背中にくっついて家の中に入っていくと、冷えた土間のかび臭い匂いがした。

「だれや。」
思いのほか近くで声がしたのに驚いて、下駄箱の角で背中を打ってしまった。土間の前の襖が開いて、ひっつめ白髪のおばあさんがぬっと現れた。一緒にお線香の匂いがした。
「そこに隠れとるんはあんたの娘か。まぁあがりんさい。」

土間を上がって通されたのは窓が一面あるだけの六畳ほどの和室だった。父とおばちゃんとの間で一通りの挨拶ややりとりが終わるまで、私は座ってじっと辺りを見渡していた。

部屋は暗くて、明るさは開けた襖の窓から入る光だけである。小さなテレビが一台と、ちゃぶ台の上にポットとお茶のセットがしてあった。ほれ座れ、と私に差し出された座布団が生暖かくへこんでいて心地悪い。
この部屋で一番立派な家具は隅に置いてある仏壇だった。父に促されて一緒に線香をあげる。白黒の小さな写真が真ん中に飾ってあって、知らない男の人だけど、面長の頬の辺りはどこか父に面影があった。
この人が死んでしまったというおばあちゃんの子供の人だ。そのことが急に私に怖さをもたらした。

「この子は来年小学生になるんかな。」
「もう一年生や。この春から二年生やでおばちゃん。」
「そうかそうか。この前も聞いたかな。」
自分の事が話題になっても、私はどうしていいか分からない。早く帰りたいと父の服をひっぱってみても、腕を払うだけで気付いてくれない。

いつの事だったか、親戚の集まりでのんのんさまの場面を遠巻きに見ていて、あれは何をしているの?と母に訊ねたことがある。
母はよく知らないと言って、隣に座っていた叔母に訊ねてくれた。すると叔母はそれまで笑っていた顔を少し神妙にして、コカのおばあちゃんは神様と話せるんやて。人の背中に神様を降ろして、心配事とかお願いごとを聞いてもらうんやて、と言った。
ふとそのことを思い出した。神様のことは分からないけれど、この部屋であの仏壇の中の人と話しをしているおばあちゃんのことを想像した。おばあちゃんは自分がおばあちゃんの姿になるまでここでずっとお祈りしてきたのだ。脛で感じる座布団のぬるさが余計そのことを現実に感じさせた。

自分にもしも、のんのんさまの順番がまわってきたら何をお願いしようか。まるで魔法でもかけてもらう気安さで考えていたお願い事を、私は頭の中で必死に打ち消した。

目と目の間が広いのをせまくしてください。
牧田さんみたいに(絵が上手な同級生)女の子の絵を描いてみたいです。
阪神を負けさせないでほしいです。(父の機嫌がわるくなるから)
お父さんとお母さんのけんかをやめさせてください。
バレエを習いたいです。

私はおばあちゃんにそのお願いがばれませんようにと願った。もう一度、さっきより力を入れて父の袖をひっぱった。早く帰ろうってば。

その様子をみていたコカのおばあちゃんが、急にふっふっと笑った。
「帰る前に、あんたにのんのんさんしておこうな。」
私は首根っこをつかまれたみたいな気持ちになった。

戸惑う間におばちゃんはするすると座布団を滑らせ、私の後ろに回り込んできた。
「あんたの、のんのんさんに向けてな。」
それから私の背中に触れるか触れないぐらいのところに手をかざし、ぶつぶつ早口で唱え始めたのである。

すぐ後ろにおばあちゃんがいるのに声が耳に届かない、それぐらいの密やかな息のような声である。所どころ抑揚がついて息継ぎが入る。節の最後に(…ください)とか、(…どうか…)という言葉がなんとか聞きとれた。
それまで、どちらかというとぼそぼそと話す感じだったおばあちゃんの早口に驚いた。聞き取れない言葉は呪文…なのだろうか、お坊さんの言葉なのだろうか。
父は土壁にもたれてぼんやり煙草を吸っていた。
目線のさきの仏壇に、白黒写真の男の人の写真が見えた。

***

不意にチッチッと蛍光灯が点いて目を開いた。私はいつの間にか寝ていたみたいだった。起きてすぐ見慣れない部屋だったので、自分がどこにいるかを思い出すのに時間がかかった。テレビで相撲をやっていて、コカのおばあちゃんと父が、せんべいを食べたながら一緒に画面を見ていた。ちゃぶだいの上に白い饅頭が一つ乗っていた。

帰りの電車で、父からコカのおばちゃんにはヒラクさんという一人息子がいたと聞いた。二人は年齢も近くて、近所に暮らしていたのでよく一緒に遊んだそうだ。でもヒラクさんは成人する前に不慮の事故で突然亡くなってしまった。それが原因とするかは分からないが、おばあちゃんは何十年もこの長屋にひとりで暮らしながら、一日中念仏を唱える日々を送っているそうだ。
その日々はやがておばあちゃんの中で見えざる者との対話に繋がり、親族の間で神様との取次ができる人と認識されるようになった。

まぁ、ようわからんけどな。でもおばちゃんがのんのんさんする姿は小さな神さんみたいなもんや。

血の気が多くなにかと問題の多い父方の親戚の中で、コカのおばあちゃんみたいに敬われている存在は珍しい人だった。私は信仰の事はよくわからないけれど、祈る行為への畏敬の念が芽生えたのはあのときのことが心に焼きついているからである。

おばあちゃんが私の背を通じて何を祈ってくれたのかは分からない。
ーあんたの、のんのんさんに向けてな。
その言葉がずっと残っている。



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