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泡日記 同じ季節に

久しぶりのデスクワークが堪えたのか、首に寝違えた時のような痛みが出て困っている。それなのに自転車で段差に勢いよく乗り上げたから、首から今後は背中の方までピキッと電気が走ったようになって、体の半面を湿布三昧にして過ごした週末だった。今日はよく晴れて気温も暖かく、今年初めて上着を持たずに外に出た。

本当は髪を切りたかったのだが、いつも担当してくれる女性が平日がメインの人なので、土日休みになると予定が合わなくなってしまった。近所には沢山ヘアサロンがあるから適当に探せばいいのだろうけど、あれをまた最初からやるのかと思ったら面倒くさい気持ちになってやめた。あれとは、互いの相性を探ったり、好みを分かってもらうまでの関係性を築くための会話のことで、それは今日の自分では無理かなと思ったのだ。それに首も痛むし。

今日は父の四十九日なので、本当なら私は喪服を来て新幹線に乗っていなければいけないのだが、弟が来なくていいよと言ってくれた言葉に甘えてここにいる。髪を切りたかっただの、首が痛いだの言う私と同時進行で、父の法要が遠くで執り行われているのだった。
納骨も一緒にする予定にしたら、父の妹である叔母に可哀想やって言われたわ。
少し前に話した時に、そう弟が言っていた。そんなに何度もお寺さんを呼んででけへんもんと。そこはもう、自分たちが出来る範囲でしきたりに添えばいいのだと言いたいが、可哀想と言う言葉と対峙しなくてはならないのは弟もしんどいだろう。
可哀想ではないよねえ。
私は自分の家に設えた手製の小さな祭壇に置いた父の写真に手を合わせた。おりん代わりはヨガや瞑想でよく使われるシンギングボウルである。深く低い音が手から体に共鳴しながら入ってくるみたいで気に入っている。
私たちなりに悼みつつ、父と過ごした日々の事を思っているのだから。

先日母に手渡した父の写真は、ちょうど2年前、同じ桜の季節に父と母を東京に呼んだ時に写したものだった。富士山を間近に見せたくて、忍野八海まで夫がドライブで連れて行ってくれた。4月の終わりに近かったけれどまだあのあたりはソメイヨシノが残っていて、風に飛ばされた花弁が小川に浮かんで向こうに流れていった。橋の欄干に腰をかけた父を私が正面から撮ったもので、その10秒前まで煙草に手を伸ばそうとするのを一言で諌めたりして、私は怖い娘だった。その後すぐに、画角があまりにも美しかったから撮った写真だった。
写真を見た母は、自分がそこにいた事はとうに忘れていて、何より1ヶ月近くも父と会っていないことについて何も不思議がる事なく、お父さんは仕事に行ってるからと言った。母の中に父が存在していることが、母の正解であればそれでいい。父のことを忘れないようになんて、余計なお世話だったのだなぁ。

私もここで、同じ写真を飾ってるんよ、お母さん。

法事が行われているもっと向こう、海を挟んでまだずっと遠くの町に、母は残って同じ今日を過ごしている。北に見える海と、見上げる空は碧いだろう。






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