見出し画像

泡日記 受け入れるために

のぞみ63号とマリンライナー29号を乗り継いで13時すぎに高松に着いた。昨夜寝たのは二時近くだったので新幹線で眠るつもりだったのだが、ぱちっと目が冴えていてnoteに載せる文章を書いていた。右側の席だったので途中で富士山を眺めた。先に現れる手前の山に惑わされるたが、本物はずっと大きくもっと奥の方で、雪を纏って悠々と存在していた。父が引き返した8合目というのはどこだったのだろう。

前日に楽天の最安値で押さえたホテルは、行ってみたらとても便利な場所にあった。サイトに宿泊者は自転車が無料で借りられると書かれていた。その手があったか!自転車を借りるという発想をなぜ今まで考えなかったのだろう。今回の滞在も一時間に数本しかダイヤの無い琴電と徒歩で移動するつもりでいた。自転車を使えば父が入院する病院まではホテルから15分足らずであった。

T病院は比較的新しい印象を持つ大きな病院だった。今朝弟が、父がCCUから西棟の6階に移ったことを知らせてくれた。通常は大部屋の患者は面会出来ないが、親族に限り入院中一度のみ処置室で15分の面会ができる。
準備が出来るまでソーシャルワーカーさんの話を聞く。運ばれた時の様子は弟から既に聞いているのと同じで、これまでの生活や普段の様子などいくつかの質問に答えた。
1月末には免許の返納と車の廃車手続きで弟が来ており、父の支援をスタートさせる予定でケアマネさんと話していたのだが、今回の入院で計画は一旦白紙に戻された。担当のTさんは「ここは急性期治療の病院なので、症状が落ち着いたら早々に転院を検討してもらうことになるんです」と申し訳なさそうに言った。転院の相談に乗りますと言ってくれたのだが、私はまだ父にも会えておらず、有難うございますと頭を下げるしか出来ない。窓の向こうに見える街並みも山の形も馴染みがなく、所在なく心細い。

しばらくして処置室に通された。父はベッドに横たわり、口にマスクが付けられていた。日曜に弟から来た写真とあまり変化がないように見えた。お父さん、来たでと声をかけて肩をさすると、大きな鼾で返事が帰ってきた。目は瞑ったままで、覚醒と昏睡のゆらぎの中にいるようだった。布団をめくって温かな左手に触れる。手の甲が膨らんでいる。元は筋張った手の人だから違う人の手を触っているみたいだった。
「左側は麻痺しているんです」
声が聞こえて振り向くと、先ほどのTさんと看護師さんらしき二人の女性が立っていた。
こっちは動かせない。理解しようとしても、柔らかく存在する左は違和感なく父に付随していて、私の指はその情報を受け付けないのだった。Tさんじゃないもう一人が、CCUから上がってきたばかりでデータは少ないが、寝ているのは今だけというより、この様子は朝から変わっていないと言った。頷いて声をかけつつ、瞼を上に持ちあげてみるが、ゆるく閉じてしまう。「お父さん」と私が呼ぶ声が、隣の詰所や周りの病室に届いてうるさいだろうか。15分しかなくてすいませんと促されたからもう出なくては行けない。掛布団が微かに動いたのは、父が聞いている証拠に思えるのだった。

病院を出ると15時を回っていた。銀行窓口での確認は明日にして、母の所へ向かう事にした。とりあえず病院から近い駅に漕ぎ始めたのだが、このまま自転車で行ってしまいたい気分である。
父は私が遊びに来ると、家から高松の市街まで度々車で連れ出した。この辺りの道はほとんど平坦で、単線の電車と道路が並走する長閑な道で、時々お遍路さんを見かけることもあった。念のためGoogleで経路を調べると自転車のルートは無いと出る。土地柄的に車か電車移動が一般的なのだろう。東京にいるKに報告がてら伝えると、すぐに止めなさいと返信が来た。尤もだが、思考に少し負荷がかかっているから私は愚かな事をしたい気になっている。

川にかかる大きな橋をいくつか渡った。国道に沿って、モールやパチンコ屋、回転寿司、うどん屋にダイソーも駐車場付きの大型店舗だ。漕ぐ速さで眺めると些細な思い出を拾う時間も生まれる。
今通り過ぎた店は、原発事故の影響で子供に食べさせる食材に神経質になっていた頃、父が隠し球のように見つけてきた農家直送の販売所だ。母は「あんたが来おへんとお父さんはこんな店に連れて来てくれへんのよ」と言っていた。

「高松にはこんなええ場所がある」
自分が見つけたスポットに私たちを連れ出すのはある時期の父の使命になっていた。関係が良い時は素直に喜びもしたが、へそ曲がりの私は、神戸から逃げてここへ来た経緯を無しにして、何事もなかったように振舞うことは出来なかった。

覚えのある店も見える景色も、薄れそうな記憶にひっかかってそのまま存在していた。途中で海の方角から山へ向かってVの字に飛ぶ鳥の群れを見た。群れはいくつかに分かれ、空に黒いうねりの線を描いていた。自転車を停めて暫く空を見上げながら、Kの言う通り自転車ですれ違う人なんていないなと実感した。でもこうしたいのだ。並走する渋滞の車内から奇妙な目で見られていても、愚かでいたい。

一時間ほどで母の泊まる施設に着いた。少し離れた場所に自転車を停めたのは、めんどくさい会話が生まれるのを省きたかったからだ。
玄関で呼び鈴を押すと、母が私に気がついて歩いてきた。来たよ〜と手を振ると涙ぐんで顔をくしゃっとする。でも手をとって挨拶を交わし、一言二言の会話をすると、私が娘であるという事が結びついていないのがわかる。会うたびに、母の中の私の認知や関係性が変わる事にも慣れてきた。今日の場合は、どうやら目の前に立っている私と、娘としての私の二人が存在しているようだ。それでもいい。今母の中に存在している私になればいい。

母は2、3日は急な泊まりで落ち着かなかったが、昨日からは良く眠れていると聞いて安心した。二人だけで少し話しをして、また明日来るねと伝えて後にした。

来た道を再び漕いで走る。空は更に夜に近くなり、自転車のライトが点灯してペダルが重たい。
「うああー」とか「にこー」とか。
横を疾走する車の音にかき消されて聞こえないと分かっているから、思い切って大声で言ってみる。この帰り道10キロの先の自分に、ビールのロング缶を買ってあげよう。それと三越で総菜も買ってホテルの部屋で食って飲むをしよう。
帰りは行きよりも足が軽いのだった。


興味をもって下さり有難うございます!サポート頂けたら嬉しいです。 頂いたサポートは、執筆を勉強していく為や子供の書籍購入に使わせて頂きます。