『高き館の王の書』序章
禍々しい木霊が、闇夜の霊気を震わせていた。伴奏は奈落の底でむせ返る荒波。歌は呪文のようだった。
月は細い。漆黒の空に昇る頼もしき灯火は太陽と満身を重ね合い、新月となって転生したばかりなのだ。
「BAZUBI BAZAB LAC LEKH CALLIOUS……」
断崖の頂で跪き、育ちつつある月に一冊の本を掲げて祈っていた影が、ゆっくりと立ち上がる。彼が天を仰ぐと、にわかに風が強まった。
虫の声が退き、木の葉が擦れる音まで息を潜めた。暴風にかき消されたのではなく、一帯の生命が、畏縮して逃げだしたかのように。
影の羽織る夜に溶ける黒いローブだけが、威勢よくはためいていた。
「EHOW EHOW EEHOOWWW CHOT TEMA JANA SAPARYOUS」
気体が濁った。およそ生き物とはかけ離れたなにかが、辺りに集いだしているのだ。
草葉に。梢の合間に。波間の飛沫に。
「きたれ」影は命じた。「地獄を抜け出しし者、十字路の支配者よ」
魔女術における悪魔召喚の呪文である。
「ゴルゴ モルモ 千の形状を持つ月の庇護のもとに 我と契約を結ばん」
永劫の死へと誘う蓋が開き、黄泉の淵が覗くのが影にはわかった。
「戸をあげよ。悠久の戸よ、あがれ。栄光の王入り給わん」
声質は、寛大な皇帝のようなものに変化した。
ニコデモ福音書において、磔刑に処せられたイエスが冥土に降りて言ったものだ。
自らを陥れた悪魔に制裁を下すために。
「冥府よ!」
今度は影自身の言葉だった。
「我が子羊を呼ぼう。第二の降臨を早めよう、人間の堕落を早めよう。おまえの腹は罪人たちの霊魂で膨れるだろう。我を信ずるならば、かの者を牢から釈放したまえ」
恐るべき邂逅ののち、深淵より、遠雷のようにおぞましき声が響いた。
――ノゾミハ?
影は喚声を上げた。
「タリタ・クミ!」
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