例え明日が来なくても。
目覚めるのが朝だとは限らない。夜勤明けで朝陽に目を細めて家路に着くひと。朝も夜も介護や育児に追われて合間にうたた寝するひと。精神を病んで一睡もしていないひと。立場は違っても等しく朝は、来る。
なんのために?
だれのために。
例えば、わたしが今から忽然と消えたとして、
それでも地球は回っている。街は動いている。山も海もそれぞれの営みを止めはしない。
でも、「わたし」主体で言えば、世界は終わっている。
だが、受け取ってくれる手があるならば、託すことが
出来る。そのためにこの星を守って欲しい。
「地球温暖化」被害に遭っているのは人類だけではない。文明がもたらした弊害。これ以上、地球をあたためてはいけない。植樹するなら、森の木を切るな。
山を削って家を建てるな。自然に逆らわず、共に生きる昔からのいにしえ人の知恵、自然を敬い仲よくつきあう。出来るはずだ。人間には手のひらで世界中の人たちと瞬時につながれる道具を生み出した。すごいことだ。それなら、世界中の人間が新しい朝を迎えるために出来ることはまだたくさんあるはずだ。紛争をやめて。子どもたちを大切にして。求めるのではなく受けとめて。
我が家は洗濯機が無い。すべてわたしが石けんで手洗いする。エコのつもりではない。それがわたしにとって安心出来て心地よいからだ。苦しい朝より明るい朝を未来の地球の子どもたちに届けたい。