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夢が伝えてくれた、わたしの中のわたしの声

昨夜、夢を見た。
娘(9才)が運転する車に乗って、
高速道路を走っていた。
わたしは、後部座席。
軽自動車のような小さな車だったと思う。

娘は上手な運転で、ずっと追い越しレーンを走っていたので、
そろそろゆっくりの車線に戻ろう、とわたしは言った。

ちょうど緩やかなカーブに差し掛かったあたりで、
娘は左手の車線にゆるやかに移動した。
すると、その後ろから、
競技用自転車に乗った人(たぶん)がしゅーーーっと来て、
車とぶつかった。

娘が運転していたのは車だったけれども、
自転車の転倒とごちゃまぜになり、
なぜだか娘が自転車から投げ飛ばされるシチュエーションとなった。

わたしは息が止まり、必死になって駆けつけた。
抱き上げ、体をさすり、たたき、声をかけた。
娘は「右のひざ、ある?」と訊いた。
全身、擦り傷と打ち身程度で、大丈夫そうだった。

けれども、それでも、わたしは息が止まりそうだった。
娘が受けた衝撃と痛みに、胸がしめつけられるように苦しかった。
あまりにこわくて、目が覚めた。
そして、横で眠る娘の手を掴んだ。確かめた。

眠れなくなって、トイレに起きた。
ぼんやりとした意識と、まだ苦しい胸。
布団に戻って、はた、と気づいた。
これは、わたしのことではないか?
投げ飛ばされたのは、幼い頃のわたしだったのかもしれない、と。

夢の解釈ならば、いくらでもできる。
良くもそうでなくとも。

わたしも、幼いころ、信号無視の車に跳ね飛ばされたことがある。
あまりの突然の出来事で、気づいたら、横断歩道に倒れていた。
目線の先には、自分の履いていた白い靴が横になって転がっていた。

わたしを跳ね飛ばしてしまったおばさんは、
大急ぎで車を停めて、走り寄ってきた。
そして、倒れているわたしに必死に言った。
「ねぇ!わたしがひいたのよね??わたしがひいたのよね???」と。
とても動揺していたのだと思う。
でも、わたしにだって、何が起こったのかわからない。
ましてや、小学校にもまだ上がらない小さな子どもだ。

横断歩道の目の前のお蕎麦屋さんから出てきたおじさんが、
「おーい!子どもがひかれたぞー!!どこのうちの子だーー??」と
叫んでいた。
お蕎麦屋さんの通り向かいには、
わたしがいつも日中を過ごしていた祖父母の家があった。
その裏手の倉庫を改装して、自営業を営む両親が作業場にしていた。
自他共に認める野次馬の母は、騒ぎを聞きつけて、作業場の扉を開けた。
そしたら、そこに、横たわるわたしを見たのだろう。
「うちの子ですーーーー!!!!」と叫ぶ、母の動揺した声が聞こえた。

わたしは、自分の驚きや、恐怖や、痛みを感じるタイミングを逸してしまった。
すべてが、ひとごとのようだった。
運ばれたかかりつけの外科では、
看護師さんが、なんだかとんちんかんな意味のない質問をいっぱいしてきた。
「おともだちの家に行こうとしたの?
 サンドイッチを買いに行こうとしたの?
 ハンバーガーを買いに行こうとしたの?」
そのどれも、あまりにどうでもよくて、
何を知りたいのかがわからなくて、
何も答えられなかった。

母が緊張やプレッシャーや大きな突然の出来事に、とても弱いことは知っていた。

そんな看護師さんと母に挟まれて、
「打ったあたまが痛い」なんて、言ったら、とんでもなく大変なことになる、と思って、言えなかった。

祖父母の家に帰り、コタツの中で、ひとり寝かされた。
痛いあたまの方は横に向けないから、ずっと逆を向いていた。
ためしに、そっと痛いあたまを押してみたら、やっぱり痛かった。


夢に見た我が娘の跳ね飛ばされた姿と、
わたしの中にいる幼いわたしの姿が、
なぜか重なった。

ここ最近、あることがきっかけで、
インナーチャイルドとも言われる「わたしの中のわたし」に毎日声をかけていた。
答えてくれないわたしに、でも思いを向けることを続けていた。
そんなことも、作用したのかもしれない。

もうこればかりは、そう思った、としか言えない。
感情をどこかに置いてきてしまったわたしが、
ずっと言いたかった、
こわかった
痛かった
さみしかった
を伝えてくれたのかもしれない。

そしたら、苦しかった胸に、急に、深い息が入り込み、
お腹がぽわんと膨らんだ。
ほんの少しあたたかな気持ちになった。

窓の外は台風のような風がびゅーびゅーと音をたてていた。
薄暗い部屋の中、もう一度、わたしは娘の手を握った。


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