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ソウルフードと祈り

もし、明日いのちが尽きる、とわかって、
最後に口にしたい食べ物は何か?
と尋ねられたら、
わたしは、

「おむすびが食べたい」

と答えるだろう。

それくらい、
おむすびは、
わたしにとっての
ソウルフードである。

きっかけは、
お手伝いで参加した子ども向けのキャンプで、
主催者のおふたりが
「初女さんのおむすび」なるものを
参加者のお昼ごはんにむすんでくれたこと。

数回お手伝いで参加したそのキャンプで、
わたしも「初女さんのおむすび」のむすびかたを習い、
一緒にたくさんたくさんのおむすびをむすぶようになった。

ほろりとほどけるような
その優しいおむすびは、
これまで食べてきたものとは
明らかに何かが違う「おむすび」だった。

その頃から、
我が家でも、おむすびは「初女さんのおむすび」になった。

佐藤初女さん。
おばあちゃん。
青森の弘前市にある、森のイスキアという場所で、
ただ在ること、
その存在、
あるがままを受け入れるこころ、
そして、祈りで、
人々を癒してこられた。
数年前に、神さまのもとへと戻られた。

ご縁があって、
キャンプのお手伝いのあと、
森のイスキアへ
初女さんを訪ねて行く機会をいただいた。

そのときの衝撃ときたら。
まだ雪溶けの残る岩木山の麓。
木造の温かみのある素敵な建物は、
一歩足を踏み入れると、そのリビングルームは、
その空間そのものが教会でミサを受けているような感覚になった。

透明で、静かで、満ちている。

食材を扱う手、
包丁を入れる仕草。
ご飯の炊き上がり。
ご飯をよそうとき。

そのひとつひとつの動作が、
祈りそのものだった。

ものにも、ひとにも、
目に見えるものにも、見えないものにも、
その向き合い方が、
祈りそのものだった。

そして、わたしは知った。
食べるということは、
お腹を満たすことでないのだ、と。
こころを満たすことなのだと気づいた。

ひとつひとつの食材には、
いのちがあって、
そのいのちが調理によって
また「生きる」瞬間があって、
そのいのちをわたしたちはいただいていて、
そのいのちが、わたしたちを作っているのだと、
もう、こころとからだで実感せざるを得ない、
そんな「とき」と「場所」だった。

わたしの中にあった「食べること」の概念が
がらがらがらとひっくり返った。

直接教えていただいた
「おむすびのむすびかた」は、
あんなにも神聖で、丁寧で、心のこもったおむすびは
これまでむすんだことがない!というほどに、
光に満ち溢れている空間だった。

それは「おむすび」だったけれども
教えていただいたのは
「ひととしての在り方」のこと、
だったのだと思う。


それから5年後。
1歳を過ぎた娘を連れて、再訪した。
娘と和やかに遊んでくださった初女さん。
あたたかで静謐な時間が流れていた。

娘はずっと「初女さんのおむすび」を食べて
育ってきた。
わたしは、ほぼ毎日おむすびをむすんでいる。

ちからがでないとき、
ちからをいっぱい使ったとき、
お茶碗にごはんをよそうのではなくて、
わざわざ、おむすびをむすぶ。
おやつも毎日おむすびをむすぶ。

それがわたしのちからになっている。
きっと娘にとっても。

食べているのはおむすびだけれど、
そこに込められいるのは、
いのちであって、祈りである。

そしてわたしは今日も
生きていく。




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