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本屋の魔力

 本屋さんに行った。多くの大型書店がそうであるように、そこでは文具も取り扱っており、私は仕事で使うボールペンの替え芯を買おうとしていた。
 目的の替え芯を探し出す前に、何か面白いものはないかと期待に胸を膨らませながら文具コーナーを回った。願望通り、前回来たときとは様相が変化していた。夏をモチーフにしたシールやレターセットにまんまと目を奪われた。優に百種は越えるであろうマスキングテープコーナーも端から端までチェックした。魅力的なデザインばかりだったため、夢中で眺めた。
 そのマスキングテープたちは一番下の段に陳列されており、私は人目を気にせず脇目も振らず、ほとんど這うような体勢で次々と手に取り、吟味していった。帰宅した今になり俯瞰的に考えると、そのときの私は妖怪小豆洗いに似ていたな、と思う。
 他者の視線を全く気にしなかったのは、イヤホンから流れるラップミュージックに高揚していたのと、目深に被った帽子、眼鏡、マスクのおかげだ。これが良いことなのか悪いことなのかはさておき、普段は他者へ過敏な自分がとても大らかな人間になれた気がして、嬉しかった。
 迷った挙げ句、シールとマスキングテープを一つずつ選び、それからボールペンの替え芯も忘れずに購入した。購入後、雑誌コーナーを少し見て、出入り口付近の本を見た。そこには新刊や本屋大賞受賞作などが平積みされており、いわば書店の顔のようなスペースだった。顔なだけあり、どの本も読む前から面白いことが確定しているような表紙と帯で、強力な光を放っていた。何冊かぺらぺら捲ると、やっぱり面白そうだった。
 その日は本を買う予定はなかったし、用事の時間が近づいていたため、後ろ髪を引かれつつその場を離れた。

 その後同じビル内で用事を済ませた後、カフェに入り、持参していた本を読んだ。読んでいる最中に頭に差し込んできたのは、先ほどの書店の顔のスペースだった。私は意を決し、帰りがけに再び書店に立ち寄った。最も強く頭に引っかかっていた本を手に取り、今一度ぺらぺら捲った。明らかに面白かった。だから買った。
 ところで、私はそろそろ退職しようとしている。当面は新たな職には就かず、本を読んだり書いたりして過ごすつもりだ。過ごしたいと思っている。だから退職後の生活に備えて貯蓄をしなければならないのだった。にも関わらずシールといいマスキングテープといい、見事に衝動買いしてしまった。本屋の魔力には抗えないなと思った。
 尤も、本当に節制したいのであればカフェに入ってはならないし、そもそも退職するのであれば仕事用のボールペンの替え芯など買わなくて良い。替え芯は二本買った。

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