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多分、どんぐりの背比べ

 昼過ぎまでダラダラした後、いい加減始動するか、と重い腰を上げ、スウェットを脱いだ。そのとき、何かがぽとりと落ちた。
 耳栓だろうな。
 そう推測しながら腰を屈めると、やっぱり耳栓の片割れだった。私は毎晩、必ず耳栓を着用して眠る。そうしなければ眠れないのだ。
 数年前、鉄筋コンクリート造の部屋から、今の軽量鉄骨造の部屋に引っ越しをした。当時は「木造はやめておけ」という父の言葉を信じ、木造以外なら造りは何でもいいや、の精神で物件を探していた。それが間違いだった。
 以前の部屋には和室が一部屋あった。そこを持て余していたのと、全体的な間取りの使い勝手が良くなかったのと、家賃が高かったのとで、引っ越しを決めたのだった。それ以外の不満はさしてなかった。私以外の住人全てがファミリーなんじゃないかと思うほどファミリーばかりが住んでいるところで、私の部屋は角部屋で、築年数は経っていたけれど周辺はいつも綺麗だった。大家さんの姿をよく見かけたから、もしかしたら管理してくださっていたのかもしれない。
 そういえば引っ越したての頃、大家さんは私の部屋を訪問するなり「お笑い芸人のナイツを知っていますか?」と唐突に切り出し、創価学会のDVDを勧めてきたことがあった。実家にいた頃もエホバの信者が訪ねてきたことがあったし、駅前でも何らかの信者が新聞を差し出してくることがあるが、その度に、これらの勧誘には一体どれほどの効果があるのだろう、と疑問に思う。

 勧誘「どうですか? 入信しませんか?」
 相手「入信します!」
 こうなる確率はとても低いだろう。

 今の部屋に引っ越したばかりの頃は、とても満足していた。家賃に駐車場代を足しても安いし、間取りは使い勝手が良いし、全体的に綺麗だし、日当たりも良かった。けれど数カ月経ち、リビング側の隣室に住んでいた夫婦が引っ越し、入れ替わりに単身者が入居した途端、事態は一変した。
 その人は毎夜のように長電話をしていた。限りなく怒鳴り声に近い声が筒抜けになって聞こえてきた。たまに、地声が太く、声量も大きい人がいるが、まさにその人がそうだった。電話の声のみならず、咳もくしゃみもげっぷまでもが明瞭に轟いてきて、そこで初めてこの部屋の壁の薄さを知った。前に住んでいた夫婦とは、一度言葉を交わしただけでお別れとなったが、二人とも物静かそうで、声も小さかった。ごくまれにテレビの音が聞こえてくるのみだった。だから壁の薄さなんて気にしたことがなかった。
 私は夜更けまで響いてくる声に徐々に怒りを募らせ、精神状態によっては殺意さえ抱くほどだった。例えば次に階段で出会ったりしたら、突き落としてやろうかと思ったり、今から包丁を握り締めて部屋に突入してやろうかと思ったりした。けれど実行には移せなかった。私はグロテスクなものが苦手で、血も苦手だった。これを言うと「女性は血に慣れているんじゃないの?」と訊く人がいるが、的外れも良いところだ。少なくとも私の目には、経血と血液は別物に映る。
 私は管理会社に連絡をした。管理会社は「静かに生活しましょう」と呼びかけてくださったのだが、徒労に終わった。寧ろ以前よりも更にパワーアップしたんじゃないかと思うほど、大声が響いてくる日々が続いた。
 私はこう考えた。ひょっとすると隣人は耳が悪いのかもしれない。常にドリルが稼働している工事現場とか、モンスターがわんさか出るダンジョンとか、そういうところで労働している人なのかもしれない。だから聴力が低下してしまい、大声でしか話せなくなったのではないか。
 もしそうではないのだとしても、他者への過度な期待は禁物だ。変化を求めるのなら自分自身が変わるしかない。
 そのような経緯があり、耳栓を導入したのだった。

 当時はコロナ禍に突入して間もなくの頃だった。都心ではテレワークや時短勤務を導入する企業も多かったようだが、私の住む地域は田舎なので、そんなものは縁遠いだろうと思われた。けれどどうやら違ったらしい。寝室側の隣人も単身者で、いつも帰宅は二十一時を過ぎていたのだが、コロナ禍に突入してからというもの早い時間に家にいることが増えた。すると、リビング側の隣人同様、夜に声が聞こえてくることが増えた。壁に凭れかかり、通話しているような近距離の声だった。それが夜中まで続いた。リビングにいても寝室にいても、声が劈いてきて、私は安息の地を失ったような絶望に陥った。
 もう無理だなと散々感じた頃、リビング側の隣人が引っ越していった。これでようやく終わったのだと思ったのも束の間、すぐに別の単身者が入居してきた。これが厄介で、現在進行形で悩みの種となっている。
 新しい隣人は、在宅中の朝と夜、そして休日はずっと、大音量で音楽を鳴らしている。大音量で映画を観、テレビを観ている。時折ギターやベースのような音も聞こえてくるため、演奏もしているのかもしれない。
 寝室側の隣人は、七時出勤・二十一時帰宅のペースに戻り、通話をしなくなった代わりに、女性と同居するようになった。そのことに私は思わず身構えたのだが、想像に反し、何も聞こえてはこなかった。だから寝室側はもう、少なくとも今のところは安全だ。それでも尚耳栓が必須なのは、リビング側の隣室の音が寝室にまで届いてくるからだ。

 理由は分からないが、ここ二年ほどでゴミ集積所のマナーも悪化した。既定のゴミの日に全く関係ないゴミを全く関係ない袋に分別もせずに投入されていたり、本来は十字で縛らなければならない段ボール箱が縛られないまま出されていたり、布団がどかんと出されていたりする。それらは当然ながら収集されず、放置される。しかし放置され続けては、困る。正規のゴミを捨てるスペースが奪われることになるからだ。夏場に生ゴミが適当な袋に口も縛らず放置されているのを見たときは閉口したが、それでも数日間は静観した。けれど静観したところでそのゴミが消滅することはなく、結局は管理会社に連絡を入れることになった。
 この物件の住人たちの中には、ゴミ出しのマナーを破る人と、それを見過ごす人がいるというわけだ。ゴミ出しに限った話ではない。共有廊下の電球が切れているのだって、駐車場に障害物が落ちているのだって、誰も声を上げない。私が管理会社に連絡をして、そこで初めて事が動く。それはちょっと奇妙というか、理解し難いことだった。皆、気にならないんだろうか?

 どんな人であろうと人は人で、だから誰にでも優しくしなければならない。そう肝に銘じはするものの、どうしてもささくれだってしまう瞬間はあるものだ。
 母は私がすぐカリカリする性格だということを知っているため、よく「穏やかに穏やかに」と諭すように繰り返す。
「穏やかに過ごせますようにって(神様に)お願いするんだよ」
 神に願うくらいなら、左腕にタトゥーを彫った方が良い。『穏やかな人間になれますように』と、太字のメイリオで。そうすれば左腕を目にする度に穏やかな心を取り戻せそうな気がする。たとえ長袖の季節であっても、そこにその文言があるという事実を把握してさえいれば、きっと大丈夫になれる。フォントの気の抜けた感じも相俟って、安らげるのではないだろうか。
 ただしそうなると右腕が寂しくなってくる。右腕には何と彫ろうか。好きなものを彫り、心の安寧を図るべきだろうか。ならば『緑谷出久』と彫りたい。フォントは教科書体が良いだろう。
 緑谷出久とは、週刊少年ジャンプ連載中の漫画『僕のヒーローアカデミア』の主人公であり、神だ。私は彼を心から愛し、信仰している(以前、無宗教であると自称したが、やっぱり違うのかもしれない。私にも母と同じく、人を信仰する心がある)。
 彼の言動は全て正しく、彼が笑うだけで私は幸福になれる。まず、みどりやいずくという名前が素晴らしい。柔和な『み』は彼が生まれた七月の鮮やかな青空を彷彿とさせるし、凛とした『く』で終わるところは彼の努力家である様を象徴している。心の底からああいう人間に生まれたかったし、ああいう風に生きてみたいと思う。
 私は左腕に『穏やかな人間になれますように』、右腕に『緑谷出久』を掲揚し、生きる。左はメイリオ、右は教科書体だ。そんな人間と、音楽を爆音で垂れ流す住人とでは、どちらがマシだろうか。

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