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【掌編】被写体の河童

 ギンは被写体として完璧な河童だった。それはカメラマン界隈では有名すぎる話だった。テレパスなのではないかと疑わしくなるほど、カメラマンの意図や希望を汲み、指示されるまでもなくポーズを決め、相応しい表情をする。できる。そういう河童だった。
 撮影会が始まった当初は誰もが『河童』を撮ろうとしていた。河童なので言語が通用しないこと、表情筋が硬いであろうことは想定済みだったから、誰もギンに被写体としてのスキルなんて一切求めていなかった。けれどギンはヒトとの声帯の差異を感じさせないくらい流暢に言葉を操ってみせた。表情筋は流動体並みに柔らかく、寧ろ我々ヒト側の方がぎこちなく強張っていたくらいだ……初回の撮影会に参加したカメラマンはのちにそう語った。そのカメラマンは私の祖父だった。
 祖父によれば、レンズが『河童』ではなく『ギン』に向けられるようになったのは、撮影会が始まって二ヶ月か三ヶ月が経った頃だったという。四ヶ月は経っていない。
 ギンはお喋りが好きで、シャッターとシャッターの隙間を目敏く見つけては嘴を開いた。紡がれるのは、何てことはない、他愛のない話だ。畑で採れた野菜をどう調理したか(ギンの家は畠中さんの敷地内にあった。畑というのは畠中さんの畑だ)、川でどんな魚が釣れたか(ギンは魚釣りの名手だった。何でも食べたが、中でもウグイがお気に入りだった)、鳥や猫とどんな話をしたか(ギンは異種とも対話ができた)……目まぐるしく表情の変わるギンを、皆が好きになるのにそう時間はかからなかった。ギンは何の作為も計略もない、純粋な河童だった。もちろん私もすぐに好きになった。

 私がギンと初めて出会ったのは私が生まれたてほやほやの時期で、その日は春らしい晴天だった。桜の木々はちょうど見頃を迎えた頃だったが、私はそんな景色には露ほども興味を示さず、父の腕の中ですやすや眠っていた。祖父は時折そんな私を見下ろしてはカメラを向けた。ギンの家を訪ねると、ギンは自身の頭上の皿に水をかけているところだった。
「ギン、フユを連れてきたよ」
 春生まれの私が何故フユと名づけられたのかについては、後年母が笑顔で語ってくれた。「赤ちゃんが生まれたら何としてでもそう名づけたかったの」。実にシンプルだ。更に追及すると、語感が良かったからとか、字面が好みだったからとかいう話が聞けた。確かに生まれた季節と名前を合致させなければならないという法律はない。良識は幼いうちに身につけておくべきだが、常識は偏見でしかない。始終ベロを出した有名なおじさんも確かそんなようなことを言っていたから、これはきっと間違いない。
「よく寝てる」
 ギンは頭を左右に振り、余分な水滴を振り払った後、私を見つめてそのように呟いた。ギンはおずおずと自身の人差し指を差し出した。すると私は様式美のようにその指を掴んだ。
「あったかい」
 普段ならば饒舌なギンは、私という赤ん坊を前に、とても緊張していた。まるで言葉を強引に奪われでもしたかのように、ごく短いセンテンスしか話さなかった。
 ヒトの赤ん坊のみならず、他のどの赤ん坊の前でも、ギンはこんな風に縮こまった。自身よりも明らかに弱い生物に対する庇護意識が強く、無自覚のうちに神経を張り詰めてしまうのだろう、というのが私の父の見解だった。
 ギンは数え切れないほど猫の出産に立ち会ってきたというのに、何度その機会を重ねようとも存在しない毛を逆立てて周囲を警戒するのをいつまでもやめられない。そんなギンの血走った眼球は、猫からすれば愉快に映るらしかった。命がけで息む猫以上にただならぬ形相をしたギンを前にすると、猫は自ずとリラックスできる。だからギンは度々出産に呼び出される。ギンは子猫が生まれると「可愛い」「あったかい」と、やはりぶつ切れに呟くのみになってしまう。それを見て、猫は笑う。
 ギンはかつて私の父ともそうしたように、私ともよく遊んでくれた。周囲に同い年の子どもはいなかったというのもあり、幼少期はギンとばかり遊んでいた気がする。私は花冠を作り、笹船を川に流し、小鳥と踊り、釣りをし、畑仕事を手伝い、鬼ごっこをし、かくれんぼをし、お絵描きをした。ギンは私の兄であり友達だった。どこに行くにも何をするのも一緒が良かった。しかし私が小学校に入ってからは過ごす時間が減ってしまった。私は送迎のバスを降りるとランドセルを背負ったままギンの家めがけて走った。時には家にはおらず、畑や川、商店にいることもあったが、必ず見つけ出してその日あったことを話し合った。私が学校でのことを話すとたまにギンは「学校の友達と遊んだっていいんだよ」という趣旨の、馬鹿げたことを口にした。私はギンと一緒にいたかった。そう話すと「フユは変わり者だね」と言われた。
「ギンはフユといるのが嫌なの?」
「まさか、そんなことないじゃないか。ギンもフユといるのが好きだよ」
 ギンにギンという名をつけたのは私の曾祖母だった。ギンはたまに私の中に曾祖母の面影を見るらしく、寂しげな顔をすることがあった。時折背中を丸めてこっそり曾祖母の写真を見つめては、両目いっぱいに涙を溜めているのを、私は知っている。その涙は決して流れることはなく、いつの間にか蒸散してしまう。

 私はギンが月に一度開催する撮影会を、毎回少し離れたところから見学していた。そこには父や祖父の姿が混じることもあった。カメラに興味なんてなかったが、ギンがレンズに向かって楽しげに笑う姿を眺めていると、ギンを撮ってみたいと思うようになった。私が興味を抱いたのはカメラではなくギンだった。
 そんなわけで私はギンの撮影会に参加することにした。お年玉という恩恵を得たばかりだったため、参加費は小学生の私にも容易く出せた。
 父から譲り受けた古いコンパクトカメラにフィルムを詰め、全国各地から集ったカメラマンの隙間に身体をねじ込み、いざギンにカメラを向けると、心拍数がどっと上がった。それほど重たくないはずのカメラが両手にのしかかり、震え動いて仕方なかった。ファインダーを覗けばギンが柔和に微笑んでいるのに、これでは撮影どころではない。
「おい、もっと脇締めろや」
 後方から知らない声が聞こえた。自分に言われているのだろうか。ちらりと振り向くと、知らない人が、と言っても私よりも少し上くらいの坊主の少年が、私と同じようなコンパクトカメラを首から提げて、こちらを見ていた。私は助言通りに脇を締めてから、正面に向き直った。
 目線は合わなくたって良かった。けれどギンの黒目がこちらを向いたとき、私の人差し指は反射的にシャッターボタンを押し込むべく動いた。その瞬間のエネルギーの迸り方ときたら、大谷がとんでもないホームランを決めた際の客席の沸騰具合に負けずとも劣らなかった。大谷自身の肉体には少しも力が篭もっていないように見えるのに、ボールはどこまでも遠くまで伸びていくのだから、摩訶不思議だった。
 ギン、と無意識のうちに呟きながら、シャッターを切る。
「ああもう全然なってねえな。お前、初心者か? そんなんじゃ全枚ブレて、見れたもんじゃないぞ」
 またもや坊主の少年が、後方から声をかけてくる。つむじに唾が付着したんじゃないかと不安を抱くくらいの至近距離だ。私は何か言おうとしたが、何も言えなかった。それにムカついたのか、坊主は私の肘を掴んできた。
「カメラはこうやって構えるんだ」
 坊主の言動に構っている余裕はなかった。今まさに、ギンが地面に落ちていた椿を掬い上げたのだ。椿の赤色はギンのややくすんだ緑色の手によく映えた。シャッターチャンスだ。

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