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混濁中の

 夕焼け、と言っても時刻は19時を過ぎていたから夜焼けと言っても良さそうな、ピンクに近い朱色の空に向かって、退勤した。
 土曜日から声が掠れており、自分の想定している音が出ない。普通に話そうとすると無音の息が漏れ出るだけなので、なるだけ喉に力を入れず、低めの声でゆっくり話す。これで喉に痛みがあればまだ妥当と感じられるのだが、ちっとも痛くないから不思議。よほどひどい声をしていて聞き苦しいのか、電話の相手には笑われるし、同僚にも笑われるし、対面する患者さんには何度も言葉を聞き返され、焦れたような、もどかしいような、苛立たしいような表情にさせてしまった。

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。いや、面白くはない。大抵はその直前まで変な夢を見ていて、現実との境界が曖昧だから、それをクリアにすべく、唸る。けれど今は唸ろうとしても唸れない。唸ってはいるのだが、唸れど唸れど、音として放たれない。その現象はちょっと、面白いと言ってもいいかもしれない。私は須貝さんと山本さんとミキティと辻ちゃんと同じクラスで、それが嬉しかったけれど、皆と仲良くすることはできなかった。そういう夢だった。夢なんだから夢みたいなまま終わっても良いだろうに、現実感が邪魔をして、そういう意味でも唸りたくなった。
 鼻水が出る。症状の変遷が、妙だな、こんな風邪は初めてだな、と思う。十時間寝ても眠いから、また眠ろうとして、けれど薬を飲んでからにしようと思い、朝食を食べることにする。腰や背中も痛むので、よいせ、と心のうちで唱えながら起き上がる。自分がひどく老いたように思える。

 昨日のお昼、休憩をとるために一時帰宅した際、マンション前に見覚えのある車が停まっていた。中から母が手を振り現れた。手を振っていない方の手には南天のど飴の缶が載っていた。「大丈夫? 声出んのけ?」私は食わず嫌い。そういう強そうなタイプののど飴は舐めたことがないから、いらないと言った。そしたらすんなり引っ込めて、車から袋を、十年以上前のローリーズファームのショッパー袋を取り出して、中からグレープフルーツやプリン、ひやむぎ、煮物を一つ一つ紹介し始めた。ジップロックの袋にはひやむぎのつけ汁が大量に入っていて、袋の口はちゃんと閉まってるのかな、危ないな、と思った。私はコンビニで買ってきたばかりのうどんを隠すように持ち替えて、母から差し入れを受け取った。運転席に座っていた父の方を見た。父は父で、先週熱を出したばかりだった。「大丈夫?」と訊くと、頷いてくれた。ということは多分大丈夫なのだろう。

 昨日までは、声が思うように出ないというだけで、至ってピンピンしていたのに、今朝は鼻水と倦怠感と、わずかに頭痛まである。この時点でもう、ピンピンコロリは叶わない。
 悲しみに浸りかけたとき、知らない音が聴こえてきた。おそらく鳥の囀りなのだろうけど、これまで耳にしたことのない声だった。私はすぐさま検索をかけた。ブラウザ上で様々な鳥の声を聴いていると、記憶がどんどん上書きされそうになるが、知りたいと思ったことは知らなくてはならないから、どんどん聴く。すると、ルリビタキの声が、これじゃないかなと思う。多分これ。でも自信がない。自分のたった数分前の記憶にも自信がないし、こんなに綺麗な鳥は近所で一度も見たことがないから。けれどルリビタキの声を聴き続けていると、次第に、やっぱりこれだと思えてくるようになる。またルリビタキの声を聴きたいところだが、耳を澄ませて待っていても聴こえてこない。ウグイスはよく鳴いている。少し開けた掃き出し窓から強めの風が入り込んできて、カーテンを揺らしている。がたがた鳴っているが、この温度は心地良い。

 母の作ってくれた煮物にはやっぱり髪の毛が混入していた。母の差し入れにはいつも絶対に髪の毛が入り込んでいる。髪の毛を箸の反対側で持ち上げるとき、いつも複雑な思いが湧き上がってくる。感謝の中にひとさじの怨恨が混入する。
 私は母の前ではマスクを外せない。母は厳しい。会う度に私の顔をじろじろ見て、肌が汚いなどと言う。それを回避するために、肌の露出面積は最小限に留めなければならない。肌には結構お金をかけているが、それでも綺麗になれないのだから、あんまりとやかく言わないでほしい、というのが本音。母は昔から、私が中学生くらいの頃から、私の脚を太いと言っていた。そんなに太いだろうか、といつも疑問に思っていたが、先日ホテルで鏡の前に立ったとき、あまりの太さにショックを受けたので、ああこういうことかと納得した。しかし私は身長163cmで、体重は45kg。ここ数年はずっとそのくらいで、44kgに減ることはあれど46kgには到達しない。数値を見るに、そんなに極端に太くなりようがないんじゃないかと思う。なのに太い。32kgまで痩せたときも脚だけは太かった。それならこれは才能ってことになる。肥満やメタボにならない限り、ダイエットはしなくていい。健康第一。そう思いつつ、脚痩せストレッチは行う。いつか母に、肌が綺麗とか脚が綺麗とか、言われてみたい。
 でも、と思う。私にもしも子どもができて、その子が大きくなったとして、外見を貶すようなことは言わないけどなあ。と、思う。母は、私の姉の外見には何も言わない。確かに姉は肌も綺麗で脚も細いけれど。でも、私が親なら絶対に言わないけどなあ。母は私のことがそんなに嫌いなのかなあ。だからいつも差し入れに髪の毛が入っているのかなあ。
 分からない。母は私に対して、たまにシンデレラに登場する継母みたいなムーブをする。あるいは、昔で言う「お姑さん」みたいな。私が母の宗教に付き合ってあげないからだろうか。確かに「私、無神論者だから」などと言う私なんかより、一緒に教会に行く姉の方が可愛いのかもしれない。

 今日は洗濯も食器洗いも掃除も買い物も防カビくんもサボって、一旦何もかも忘れて、ずっと寝て過ごそうと思う。

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