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そっと近づいてさっと取る

 怠惰な日々が続いており、休日はデリバリーで食事を取ることが多くなった。
 その際、『置き配を希望しますか?』にチェックを入れるのを忘れない。人と接するのが苦手なため、できることならデリバリーに限らず全ての宅配物を置き配にしたいところだが、荷物によってはできないこともあり、そういうときは指定の時間が近づくにつれ緊張感が高まっていく。
 デリバリーの商品が届くと、ピンポン、とチャイムが鳴る。モニターを見ても誰も映っていない。けれどすぐにドアを開けることはせず、そっと近づいて、ドアに耳をくっつける。
 基本的に配達員は商品を地面に置いてからチャイムを押し、去っていくが、人によってはチャイムを押してから商品を置く人もいる。だから、外に人の気配がないことを確認してからでないと、ドアを開けてはならない。開けてはならないということもないが、開けて配達員と出くわすと「あ、どうも」「すみません」と気まずい空気が流れてしまう。
 耳を澄ませて外の様子を窺うと、一人分の足音が去っていくのが聴こえてくる。このときの足音が人によりけりなのが面白い。ある人は怒涛の勢いで駆けていき、階段を下っていく音まで響いてくる。ある人は速足で静かに去っていく。ある人はピンポンダッシュに近いスピード感で去っていくため、私がドアに耳を押しつけた頃には既に向こうはもぬけの殻だ。それでも尚じっと息を潜めていると、階下からエンジン音が聴こえ、配達員の運転する車が移動していくのが分かる。
 私はそっとドアのロックを外し、開錠し、じりじりとドアを開ける。このときいつも、そこに人がいたらどうしよう、という不安に襲われる。人がいたところでどうということはないのだが、万が一良くない配達員がいたとして、悪事に巻き込まれでもしたらどうしよう、と数秒間考えてしまうのだ。それは配達員による犯罪やトラブルのニュースを目にする機会が多いからだと思う。
 私が恐れているのは、自分自身が何かしらの被害を受けた際、衝動的に手を上げてしまうのではないか、ということだ。人を殴ったことは人生で一度もないが、その光景が頭に過ぎる瞬間は、これまでに何度もあった。それを理性で抑制し、もしくはすんでのところで臆病な自分が顔を出したがために、加害者にならずに済んだ。

 配達の話からは逸れるが、例えばニュースで電車内の悪質行為なんかが取り扱われていると、もしも自分が被害を受けたらどうするだろう、と考える。冷静に対処できる自信は全くない、とすぐさま思う。恐怖に怯えて硬直するか、キレて電車から引きずり下ろしたのち線路に突き落とすかの二択のように思えてならない。視界が狭まり、暴走する自分が容易に想像できてしまう。それは自分にそういう要素があると知っているからで、私はそれが現実化してしまうのが恐ろしくてならない。線路に突き落とした後の光景も、まるで体験済みであるかのように明瞭に浮かび上がる。人身事故、悲鳴、喧騒、私は取り押さえられ、連行される。我に返ったときにはもう遅く、人を殺めてしまったことを知る。遺族の悲しみ、私の家族の苦しみなどが日を追うごとに伝わってきて、後の人生は贖罪に費やすことになる。そんなのはもちろん嫌だ。

 だから置き配を選ぶ。
 ドアの向こうに誰もいないことを注意深く確認した後、必要最小限の隙間から、さっと商品を掴み、中に引き入れる。これでようやく安心して食事にありつける。
 デリバリーで注文するのはピザが多い。そこにポテトとサラダをつけるのだが、どう考えても一人で食べる量ではない。二人前はある。それを無心で平らげては、もう二度とデリバリーには頼らず野菜だけ食べて生きるぞ、と決意する。けれどその決意はすぐに崩れてしまう。
 今日は惣菜とはいえポテトサラダを食べた。一応、野菜だ。だから良しとする。

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