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笑ってほしい

 予定のない休日は、動ける日と動けない日とがあり、大抵は目覚めた時点で「あ、今日は動けない日だな」と判断がつく。そういう日は食事とトイレ以外は一日中ベッドで過ごすことになる。少し調子が良ければ本やタブレットを枕元に置き、何かしら活動めいたことをしようとする。けれどほとんどの場合、何もできずただ眠り続けてしまう。
 このまま死んだらどうなるだろう、と、眠る前によく考えるようになった。死後硬直とか、葬儀の話だ。住んでいるマンションの管理会社への迷惑や職場への迷惑については、最近はあまり考えなくなった。とにかく早めに確実に楽に終わりたい。そういう方向に移行した。

 父方の祖母は亡くなる前の十年ほどは鬱がひどく、身体を動かすこともままならなかったため、施設に入所していた。そのまま施設で亡くなった。
 こうして書いていると、自分の記憶が着実に薄れつつあることに気づかされる。亡くなった祖母に初めて対面した場所が病院だったのか祖母宅だったのか、綺麗さっぱり忘れてしまった。
 信じられないことに、戒名も忘れてしまった。祖父のは覚えているのに。祖母のだって忘れたことなどなかったのに。素敵な戒名だったし、墓前で手を合わせる際には絶対に心の内で唱えていたのに。罪悪感でいっぱいだ。今度、父に祖母の戒名を確認しなければならないだろう。
 死後硬直した祖母の姿勢は強烈に記憶に残っている。祖母はよく、両膝を立てて眠っていた。息を引き取る瞬間もどうやらそうだったらしく、祖母の掛け布団は下半身のところが三角に盛り上がっていた。そのことを最近、頻繁に思い出す。
 私は横向きかうつ伏せで眠ることが多いから、死後硬直した姿はあまり綺麗じゃないだろう。葬儀屋スタッフが私の身体を清める際、滑稽な姿勢を目にして思わず吹き出すことがあるかもしれない。私の家族も笑うかもしれない。けれど最期に笑いを提供できるのなら、それで良いだろう。皆に笑ってもらうためにも、奇天烈な体勢で眠る練習をしておくべきだろうか。

 ▽追記
 投稿前にこの記事をチェックしていたら、不意に祖母の戒名が降りてきた。安堵すると同時に嬉しくなった。まだ私と祖父母の間の糸は切れていないのだと思えた。
 思い出しついでに、もう少し書く。
 祖母と私は11月生まれのB型という共通点があった。けれどそれだけだ。祖母は納豆が嫌いだが、私は好きだ。祖母は宮城と秋田のミックスだが、私は茨城と茨城のミックス(ミックスとは言わない)。
 祖母の葬儀の際、子や孫たちが順に祖母へメッセージを伝えていくという場面があった。そこでは示し合わせたかのように、皆が「おばあちゃんはお花と料理が好きだったね」と言った。私もそのようなことを言った。当時はただモヤモヤしていただけだったが、今ならその煩悶の正体が分かる。私は祖母の好きなものを、本当は何一つ知らなかったのだ。にも関わらず、適当なことを言った。
 実は他の家族たちも皆そうだったんじゃないだろうか。一般的な、もしくは理想の母や祖母、主婦、女性像に適合するであろう趣味をこじつけたに過ぎないのではないか。
 祖母は別に花を育てていたわけじゃない。畑の端で咲いた花を綺麗だねと時折愛でていただけだ。そんなこと、誰もがやっている。料理だって、別に好きでやっていたわけじゃないと思う。家族の誰もやる人がいなかったから、やるしかなかったのだ。
 祖母は施設に入所する直前まで、長男に料理を作ってあげていた。その長男(私の父の兄で、つまりは伯父だ)は、祖母の亡き後は一人で暮らしている。時折私の両親などが世話を焼きに行くのだが、食生活は滅茶苦茶に荒れ果て、今では週に数回、人工透析を受けている。障害者手帳も与えられたらしい。
 私の家族には身体障害者や精神疾患持ちが複数人いる。父方も母方もだ。そういう因縁があるのだとしたら、やっぱり私は子を産むべきではないなと思う。本格的に子どもを産みたいと願ってしまう前に、全て終わりたい。子どもが欲しいとか家族が欲しいだなんて、思わないようにしたい。一人でも完璧に大丈夫な人間でいたい。

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