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ぴょこぴょこ

 視界の隅で何かが動いたのを察知し、顔を向けると、蛙の赤ちゃんが跳躍したところだった。これと同様の現象が毎日起こっている。黄緑色が見えたら蛙の赤ちゃん。何かが跳ねたら蛙の赤ちゃん。
 サイズも色もカメムシに酷似しているのに、カメムシに抱くような恐怖は湧いてこない。大雑把な違いは移動手段が飛行と跳躍であることくらいで、三メートルも離れてしまえば判別不能なほどなのに、蛙の赤ちゃんは愛おしい。蛙の大人は怖い。カメムシはもっと怖い。

 蛙ぴょこぴょこみぴょこぴょこ、合わせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ、という早口言葉のことを、ずっと意味不明だと思っていたけれど、確かに蛙はぴょこぴょこ跳ねる生き物だ。ひょこひょこともぴこぴことも異なる。ぴょんぴょんは良い線を行っているが、硬度が足りない。

 姉にラインを送った。
「最近、蛙の赤ちゃんをよく見るよ」
 返ってきたのは、
「おたまじゃくし?」
 という反応だった。
 またこの人ってば天然炸裂してるよ……と一瞬呆れそうになったが、間違っていたのは私だった。蛙の赤ちゃんはおたまじゃくしだ。正しい。私は「蛙の赤ちゃん」ではなく「赤ちゃんの蛙」と表現すべきだったのだ。もしくは「子蛙」「ミニ蛙」「おたまじゃくし以上蛙未満」。
 それにしても、蛙とおたまじゃくしが咄嗟に結びつかなかったのにはかなりのショックを受けた。何かが着実に退行してしまったように感じた。
 姉はよく、「子猫を見たよ」と報告してくれる。私は子猫をあまり見かけないから羨ましい。私の周囲には、赤ちゃんの蛙と大きな猫しかいない。カメムシは最近見なくなったから安堵している。

 同僚から唐突にこんなことを訊かれた。
「ねえ小倉さん、メダカ要る?」
 妙な表現だなと思い、引っかかった。まるで「きゅうり要る?」みたいなノリだ。
「メダカ?」
 訊き返すと、お子さんが大量に「獲ってきた」らしい。「貰ってきた」だったかもしれない。一体どこで、どんな風に、どういう経緯でそうなったのだろうかと疑問に感じつつ、「いや、要りません」とだけ答えた。
 私はメダカが大きくなったら何になるのか、知らない気がした。家に水槽も持っていなかった。
 それに幼少期、私は殺戮者だった。祖父宅の金魚に餌を与えすぎて、水槽の中の全ての金魚を殺してしまった。誰一人として私に拳骨を喰らわせなかったし、それどころか、誰も怒らなかった。蛙を見つけてはスプーンの底で潰し、土蜘蛛の巣を破壊し、蜻蛉の羽根を千切った。その一連の行為について、誰も私に説教をしなかった。私は誰にも殴られたことがないまま、野外に放置されることもないまま、倉庫に閉じ込められることもないまま、三十歳になってしまった。一度だけ、祖母からお尻を叩かれたことならある。あのとき私は一体何をしでかしたのだろう。肝心なことを忘れてしまった。

 蛙を見ると肌が粟立つのは、あの頃しでかしたことの罪悪感がずっと残っているからだ。もう償いのしようもない。
 何故あんな残虐行為に喜びを見出していたのか、今となっては全く分からない。あれがエスカレートしていたら、今頃私はここにおらず、少年院に送致されたのち何かとんでもない罪を犯していたに違いない。テレビや新聞に連日名前が報道される大悪党になっていたとしても、何ら不思議ではない。
 現段階ではまだ警察のお世話になってはいないが、生きている以上、油断はできない。私は自分を信用できない。だからメダカは飼えないと思った。

 赤ちゃんの蛙がぴょこぴょこ跳ねる。それを誤って踏んでしまわぬよう、細心の注意を払い、歩く。
 そんな折、マンションの階段で、一匹の蛙が干からびていた。とても暑い日だったから力尽きてしまったのか、それとも何者かによって踏み潰されてしまったのかは定かでない。とにかくその蛙は平たくなっていた。赤ちゃんの蛙だった。とてつもなく申し訳ない気持ちに陥った。生物には生きているうちにしか優しくできないのだから、誰にでもなるだけ親切に接したい。

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