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落選作を振り返らない

 私はAmazonからの荷物を今か今かと待っていた。遂に「配達完了」の通知が届くや否や、すぐさま部屋を出た。階段を駆け下り、郵便受けを開け、茶色の封筒をむんずと掴んだ。この中に『すばる』が入っている。二次予選及び三次予選通過発表がなされている。
 ……と、このくだりはどうでも良いので本来は書かなくても良いのだが、どうしても書かずにはいられなかったので書いた。全ての事物にはイントロが必要なのだと、私が私に言っていた。それが音楽なのだと。いや、これは文章であり音楽ではないので、本来はサビから書けば良いのだが、どうしても書かずにはいられなかった。だから書いた。
 私はAmazonの封筒のテープをぴいっと引っ張りながらマンションの廊下を歩いた。手からすぽっと封筒が抜け落ちた。それで、あーあ、二次は落ちただろうな、と思った(これは後付けで、何も本当に予感を抱いたわけではない。実際には「今のうるさかったかな、早く拾おう」くらいしか思わなかった。でもこれは音楽なので、後付けという名のアウトロが許される。いや、これは音楽ではない!)。
 私は気を取り直して封筒を拾い上げ、中から『すばる』を取り出し、部屋に戻ってから読むべきか迷いながら階段を上り、その途中でやっぱりページをめくることにした。視界の隅に淡めのバッタがいた。
 そのとき私の脳裏には二つの不安が過ぎっていた。一つは、他の部屋の住人が唐突に現れやしないか、ということ。私は一昨日隣人とすれ違った際に挨拶を無視されたのを未だに引き摺っていた。これまでこのマンションで挨拶が返ってきた試しなどないというのに、私の心はいつかきっと挨拶が返ってくると信じたがっていたのだ(これも勝手に指が動いただけの後付けに過ぎない。他の住人に遭遇したら反射的に挨拶をしてしまうだけで、祈りなんか込めていない。挨拶を無視されることよりも、挨拶をしなかった際の自己嫌悪の方が激しいから、今後も私は挨拶をし続けると思う。しなければならない)。
 もう一つの不安は、二次予選を通過しなかった場合に自分が傷ついたらどうしよう、というもの。通過しないことよりもそのことにショックを受けることの方が自分としてはショックだった。落選は落選なのだから、どこで落選しようと仕方ないことなのに。
 ……と、ここまでがBメロだ。これは音楽ではないのだが、便宜上サビに入る。私はすばる文学賞の一次予選には通過したが、二次予選には残らなかった。
 当然だ。拙作『チャルメラおじさん』はこんな風に始まる。

 チャルメラおじさんに会いたければ、夜十時にかわうそ公園を訪ねれば良かった。

 私が読み手ならば、この一文で踵を返してしまうだろう。付き合いきれない。しかもこれ以降は、陳腐且つ露悪的な内容が続く。私は本当は、少年ジャンプの理念にあるような、友情・努力・勝利が大好きなのに。当時(と言っても去年の話だが)何を思って書いていたのか、自分でも謎だ。唯一、タイトル先行で書き始めたことだけは覚えている。
 思えば私は自分が好きになれない小説ばかり量産してきた。頭に浮かぶのだから仕方ないというそれっぽい弁明を添えて。けれど本当は、自分で繰り返し再読したくなるような小説を書くべきなのだと思う。そうでなければ万が一評価されたところで愛せない。
 ただ、そろそろ限界を感じているのも確かだ。私は文章が下手だ。日本語が下手だ。会話に至っては全くと言っていいほど書けない。その粗をカバーできるレベルのストーリーテラーだったなら良かったのだが、そういうわけでもない。寧ろ年々何もかもが酷くなっていく。集中力が続かないし、一夜にして蚊に十六箇所も刺されるし、椅子の座面はボロボロ剥がれ落ちてくるし、眠れない癖に眠たいし起きられない。
 とりあえずこの落選作『チャルメラおじさん』はもう二度と読まないことにして(チャルメラおじさんって何やねん)、今書いている私小説めいたものを完成させることを目下の目標とする。

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