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【掌編】今日はジャンプが休みだから

 ジャンプが休みの月曜日、決まって叔父は遠くへ行きたがった。遠出と言うには手近すぎたのは、バイトしているとはいえ叔父がそれほど裕福ではなかったからだ。僕のお小遣いも高が知れていた。
「そらくん、行こう」
 早朝も早朝、まだ暗闇の中、叔父の手が僕を揺らした。そこで分かる。そうか、今日はジャンプが休みなのか。
 僕が目を開けないでいると、次第に振動が激しくなってくる。そらくん、と呼ぶ声にも焦燥感が滲んでくる。今日もまた始発電車でどこかへ連行されるに違いない。けれど寒いしまだ眠い。それに今日は英語の授業で小テストがある。何とかして叔父の遠出を回避できないものか、回らない頭で考えようとする。
「起きろ!」
 遂に布団を剥がされた。祖父母と母と叔母と叔父と同居するこの家で、僕は最も立場が低い。人権なんてあってないようなものだ。
 僕は渋々、スウェットからジャージに着替えた。既に着替えを済ませた叔父はぱりっとした顔で、僕の布団を素早く畳んだ。畳んだだけで、押し入れに収納はしない。叔父の布団と隣り合った僕の布団は、曾祖父のお下がりだった。長年使っていたせいで敷き布団は薄く圧縮され、掛け布団には加齢臭が染みついていた。
 叔父のお下がりのダウンを着て、叔父に続いて静かに外に出る。帰宅したら祖父に怒られるだろうなと思いながら。
「どこ行くの?」
 どうせ明確な答えは返ってこないだろうなと予想しつつ、それでも尋ねる。冷気が鼻をツンと刺激し、僅かに涙が湧き上がった。
「仙台」
 予想は裏切られた。
「牛タン食いに行こう」
「え、ほんとに?」
「ほんとほんと。そらくん、食ったことないだろ」
「ない」
「よし」
 叔父は満足したように頷いた。
 駅に着くと切符を渡され、それで改札を潜る。電車はまだ来ないので、引き寄せられるように待合室に入ると、暖房がついていて暖かかった。叔父が自動販売機で買ってくれたお茶を一口飲むと、胃にじわりと染み入った。
「きーちゃん、電車あと何分で来るの?」
「十五分くらいかな」
 じゃあもう少し寝ていても良かったんじゃないだろうか。そう思ったけれど口には出さない。
「そろそろお母さんに連絡入れとこうかな」
 ポケットからスマホを取り出そうとしたが、「大丈夫。メモ置いてきたから」と釘を刺すように言われた。
「そんなことするなんて珍しいね」
「うん、まあ、たまにはな」
 電車がホームに滑り込んできた。うとうとしていた僕は叔父に起こされ、ぼんやりした身体で電車に乗った。叔父が座った狭い座席に腰を下ろすと、お尻とふくらはぎがすぐに温まった。スーツを着た人がぽつぽつと乗車するのを見て、こんな早朝から働きに出なくちゃいけないなんて大変だなと思った。
「寝てていいよ」
 船を漕ぎ始めた僕を見遣り、叔父はどこか得意げに言った。叔父は絶対に寝過ごさない。声音にはその自信が透けていた。僕はニヤつくと同時に瞼を閉じた。

「ジャンプが休みだと、やっぱり世界がくすんでるよな。皆、暗い顔してる」
 仙台駅に着いてもまだ朝だった。周りを見回す叔父の後を追い、遅れて叔父の言葉の意味を考えようとする。
 けれど黒い人混みを縫って歩かねばならず、頭が回らなかった。代わりに目が回りそうだった。大半が急ぎ足で、大半が僕より背が高かった。うねり迫る暗色。数多の足音。津波みたいだ、と思う。テレビで見る津波みたいだ。
「そら、しんどい?」
 叔父は僕の手を引っ張り、止まってくれた。僕は率直に頷いた。するとすぐそばのカフェっぽいところに導かれた。ようやく息が吸えた。
 二人がけのテーブルに着くと、叔父は僕の顔を覗き込んだ。
「ココアでいい?」
「うん」
 ホットココアが二つ運ばれてくるまで、僕たちは口を利かなかった。スプーンで生クリームをかき混ぜる叔父を真似て、僕もそうする。家で飲むココアに生クリームが乗っていることなんて絶対にないから、作法が分からなかった。叔父がマグカップに唇を近づけるのを盗み見て、僕も恐る恐る啜り始める。とても甘い。
「美味しい?」
「うん」
 今日はやけに訊いてくるな、と思った。目を上げると、叔父は妙な顔をしていた。そばかすが散りばめられた頬が全く緩んでいなかった。僕の様子を明らかに窺っていた。
「え、何? 何かあったの」
 叔父は否定しなかった。
「俺、計算したんだよ」
「何を?」
「この間、そらくんの誕生日だっただろ。興味本位で、受精日を逆算してみたんだよ。そんな顔すんなって」
「いや、だって、そんなの知ってどうするの」
「そらくんの父親、どんな奴なのか気になるじゃん。今更だけどさ」
「そう? 僕は別に……それに、時期が分かったって特定できるわけじゃないでしょ」
「そうだけど。そうなんだけどさ、背景が見えるだろ」
「よく分からないよ」
 叔父は溜め息未満の息を吐き出した。
「受精日、姉ちゃんが避難所にいた時期なんだよな」
 僕は椅子に座り直した。
「避難所で、てこと?」
 叔父は頷いた。
「でもお母さんは避難所で皆のお手伝いを頑張ってたって、おじいちゃんたちが言ってたよ。ボランティアの人たちと一緒にさ。だからそんな暇なかったと思う。きーちゃんだって、その頃まだ物心ついてなかったんでしょ」
「うん、俺地震の記憶ない。姉ちゃんは俺の面倒も見ててくれたって、皆言ってた」
 叔父は僕の母と十六歳離れているので、親子のような関係だった。叔父と僕は二歳しか離れていない。だから最初は叔父のことを兄だと思っていた気がする。
「きーちゃん、ジャンプの読み過ぎだよ。頭の中で勝手に物語を練り上げて傷つくなんて、変だよ」
「多分そらくんと俺が考えてることは違う。俺はもっとグロいことを考えてる。全然ジャンプっぽくないことだよ。これはルフィにもデクにも悠仁にもない思考、発想だと思う」
「考えすぎだよ。それとも僕の想像力が欠如してるだけ?」
「いや、そらくんはちゃんとしてるよ。心優しくて人の気持ちを考えることができて……だからこそ父親の顔を見てやりたいんだよ。ごめん、これは完全に俺のエゴ。あの時期、ボランティアの学生たちが仙台から来てたって、母ちゃんから聞いたんだ。それで居ても立ってもいられなくなってさ。俺、そらくんの父親はボランティアの人間の中にいたと睨んでる」
「見つけられないよ」
 僕は何を言うべきか、思うべきか分からないまま語気を強めた。
「不確定要素が多すぎるし、何より見つけ出してどうするの? 僕は顔も知らない父親なんて、どうだっていい。皆との今の生活が楽しくて幸せで、それで十分だよ。牛タン食べて帰ろう。ね?」
「俺はそばで寝てたんだよ」
 叔父は僕の説得には微動だにせず、脱力したように呟いた。
「避難所ではいつも姉ちゃんの隣で寝てたんだ。母ちゃんも父ちゃんもそう言ってた。姉ちゃんのそばを頑として離れたがらなかったらしい。俺はずっと姉ちゃんと一緒だったんだよ」
 ココアはまだ半分以上残っていた。僕の分も、叔父の分も。

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