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【掌編】生卵の人

「目玉焼きとスクランブルエッグ、どちらがいいですか?」
 本当は訊くまでもないことだ。長年この仕事をしているからか、客の希望は顔を見るだけで自ずと分かる。二択を外すことは絶対にない。
 朝食会場に現れたのは、二十三歳の一人客。彼女とは今朝、勤務前にいつも通り温泉に浸かろうとしたタイミングで、脱衣所で遭遇した。
「おはようございます」
 私が挨拶すると、彼女は湯上がりの裸を猫背で隠すようにし、やや戸惑った表情で挨拶を返した。昨日のチェックインの際、私はもちろん裸じゃなかったし、眼鏡をかけていた。申し訳程度に化粧もしていた。だから私が昨日の女将であることに気づけないのも無理はない。彼女にとってみれば、知らないおばさんに挨拶をされた、という状況なのだろう。彼女の折れそうなほど細い胴から目を逸らし、私は浴場の扉を開けた。
 名義上は大浴場だが、実際は大とつけるほど広くはない浴場を、それでも私は気に入っている。泉質の良さもさることながら、隅々まで清掃が行き届いており、シャンプーもコンディショナーも桶も椅子も、いつでも正しい位置に整列している。スタッフの努力だけではこうはいかない。今しがた出ていったばかりの彼女も、備品をあるべき場所に戻してくれていた。
 彼女は絶対にスクランブルエッグの人だ。
 私は自信を持って予想できた。予想なんかじゃなく、確定事項と言って良かった。
 朝食会場ではまず、客に希望の卵料理を尋ね、私がフライパンで調理する間、愛ちゃんか佐藤さんがご飯や味噌汁、小鉢を配膳することになっている。既に朝食を食べている他の客の希望は、今日も外すことなく的中させた。
 さあ、早く。
 私は彼女の答えを待った。
「あの、生卵のまま提供していただくことはできますか」
 止まった。全てが。
「はい?」
 訊き返したが、晦渋な表現を放り込まれたわけでもないから、彼女の言葉を整理するのにそう時間はかからなかった。
「ああ、ええ、もちろん可能です。只今ご用意致しますので、どうぞおかけになってお待ちください」
 ご用意も何も、卵を小皿に載せ、佐藤さんの持つお盆に載せるだけだ。佐藤さんが軽く「はいっ」と応じ、彼女の元へ届けに行く。
「ごちそうさまでしたあ」
 家族連れの客が出ていくのを、腰を折って見送る。食卓を片付けながら、彼女の方を密かに窺う。彼女は卵をまずテーブルに叩きつけ、それからご飯の上で割った。
「いただきます」
 声は聞こえなかったけれど、ぽてりとした唇はそのような形に動いた。目元は脱衣所で遭遇したときの困惑とは異なり、柔和に緩んでいる。白米と卵が、彼女の口内に到達する。私は持っていた布巾を固く握りしめた。彼女は二口、三口と食べ進めた。


 了

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