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五年生の夏、缶ビール缶でかんぱい

 誰にも言っていないのだけれど、初めて缶ビールで乾杯したのは。実は小学生五年生だったりする。

 ちょっとやんちゃな親友と過ごした夏休み、私は初めて缶ビールを手にした。差し出されたビール缶を恐る恐る、渋い顔で受け取ったのを覚えている。だって土が付着して汚かったから。


 夏の夕方は私の大嫌いな時間だった。
 当時、家の門限は五時までこれ絶対。私の家は親が少し厳しくて、周りの子は明るい時間で近場なら七時まで遊んでよかったのに、一人だけ先にコンクリートに伸びる長い影を踏みながら帰るなんて、嫌だった。

 だからその日はちょっとだけ親に反抗して、今日は五時半まで大丈夫だと嘘をついて遊んでいた。五時を過ぎたころ、「帰るの嫌だなあ」なんて肩を落とした私に、親友は何を思いついたのか「ビール飲んだことある?」とニコニコしながら聞いてきた。

「ないよ」

「じゃあついてきて」

 手を引かれるまま立ち上がると、他の子が振り返ってどこに行くのか聞いてきた。

「ちょっとビール飲みに行ってくるわ」

 振り返った親友がサラリと言った言葉に耳を疑って、慌てて手を振りほどいた。まず未成年がお酒を飲んじゃダメだってテレビのCMでも言ってるし、万が一お母さんにバレたらどんな目に合うか……

 手も首もブンブン横に振っても、大丈夫だって、子どもでも飲めるお酒だからと、再び手を引かれて公園の隅に連れていかれれば、湿った土のにおいと不法投棄された自転車、転がった飲みかけのペットボトルや破れて骨が剥き出しになったビニール傘が目に映る。

 その中で親友が「あった」と手にしたのは捨てられた空っぽのビール缶で、二本拾ったうちの一つを差し出してきた。

 汚い。はっきり言って汚い。捨てられていたということは名前も知らない誰かが飲んだ後ってことで、それも汚かったし、湿った土を払った後がなんとなく濡れてて嫌だった。しかも蟻がついてて思わずビール缶を地面に放り出す。
 蟻が付いていないのを確認してから拾い上げると、今度はこっちだと親友は水飲み場へ私を連れて行った。午後とはいえ、真夏の太陽の下に晒され続けた温かい蛇口を捻って表面の汚れを落とし、ビール缶の中を洗い流す。
 たったそれだけでビール缶がずいぶん冷えた。

 それから臭いの絶えない公園のトイレにある石鹸で飲み口と中身を念入りに、そして手を切らないように慎重に洗い、もう一度水飲み場に戻って全体をすすいだ。

 ここに、水筒に隠し持ってきたお茶とか、ジュースとかコーラとかを入れて飲むのだと親友は言う。それはとっておきの、子ども達だけのビールで、恐らく大人に見つかったら怒って取り上げられるような物だった。
 その日は水筒なんて持っていなくて、他の子が持って来ていたものを分けてもらった。親友はブドウジュース、私はリンゴジュース。

 それから二人で日陰のベンチを選んで、並んで座った。

「かんぱーい!」

 カコンとお互いのビール缶を当てる子どもだけの小さな乾杯。笑いながら一口飲んだビール缶のジュースは冷蔵庫から取り出したような冷たいジュースじゃなくて、水筒から分けてもらった冷たさだったし、なんだかお酒のにおいがする変な飲み物だった。
 なのに、「おいしい?」と聞かれて「うん、おいしい」とその日一番の笑顔で返すほど、それはおいしかった。

 近くの木に止まっていたのかヒグラシが丁度鳴き始めて、日が沈む時間帯のぬるい風に息を吐いた途端、

「本当は今日五時までやろ」

 なんて、言われたものだから、日陰にいるはずなのに体がかあっと熱くなって、リンゴが香るビール缶を握りしめたままとっさに俯き「うん」と頷けば、「やっぱりな」と答えが返ってくる。

 親友は、私が嘘をついて遊んでいることをちゃんと見抜いていた。

 「いつから、」と小さく口を開けて尋ねれば、うーんと首を傾げた親友は最初から気付いていたと答えると、いつもと変わらないたれ目の、穏やかな表情で私を見る。

「お母さん、きっと心配してはるで」

 てっきり、嘘をついたまま遊んでいたことを怒られると思っていたのに、私の母親が厳しいことを知っていた親友は、私が怒られることを心配してくれていた。

 家まで送って行くから門限のことは一緒に謝ろう、ビール缶のことは秘密やで、次も遊びたいから許してくれはるとええなあ、と話す親友に私は「ありがとう」と返すのがやっとで、せっつかされるままビール缶の中身を飲み干して立ち上がる。

 遊んでいた他の子たちと別れを告げた午後五時半の空。傾く夕陽に合わせるように伸びる影帽子を二人で踏み踏み、また親友に手を引かれて帰る。
 背の順でいつも後ろに並んでいる親友の背に向かって、「ごめん」と声をかけた。

「お母さんのこと?ええねんで、お母さん厳しいもんなあ」

「そうじゃなくて」

 立ち止まった私に、親友も立ち止まる。そろそろ沈む夕陽に照らされた右頬が熱かったけれど、それよりもこの親友の前では正直でいたかった。

「遊べる時間のこと、嘘ついてゴメン」

 嘘をついていたことが申し訳なくて、親友から目が離せなかった。繋いだ手をギュッと握りしめていたら、親友はいつも細い目を見開いて、それから笑い出した。どうして笑うのかと聞けば、そんな小さなこと気にしてたなんて思わなかったと、むせながらまだ笑っていた。


 あの夏の小さな乾杯をしてから数年後、二十歳になったら一緒にお酒を飲もうと約束した。お酒を飲める歳になっても、私はまだお酒に慣れていないし、炭酸が入っているのはあまり好きじゃない。お互い離れてしまってもう連絡も取っていないけど、彼女がまだ約束を覚えてくれているのなら、今度は二人で、本物のお酒を飲みたいな。

 そしたら、苦手なお酒も、あのビール缶のジュースのように美味しく思えると思うから。

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