赤い花

初めて、その花を見たのは上京した夏の終わりだったと記憶している。寒さに弱いせいで、自生しないその花は、自分にとっては創作の世界の存在だった。悲しくも縁起悪いものの象徴として語られたその花のことはずっと好きだった。だから、案外普通に咲いているその花を見た時は、妙に興ざめの気持ちがあった。けれども、その年、劇的に変わる環境があった。鬱の原因から抜け出してようやく自分の世界に色の様な認知をもつに至った。その夏を振り返る時、あとからになって、最初にみた彼岸花の色が不思議と思い起こされた。記憶の中の赤い花は、そうして美化されていく。それは神聖な領域になり、その花をしっかりと眺めなかったことを酷く後悔した。


例え無意味に詰まれたとしても、今年もまた赤くもえるのでしょう。
それでも、今年の赤は、もう最初の赤ではない。来世に咲いた花の色が何色だろうと、その夏を吸い込んで、秋に咲いた色にはもうなれないことの虚しさが重くのしかかる。

某年、某日、既に使われなくなった道を歩いていた。遠巻きに聞こえてくる虫の微かな鳴き声と、未だ余熱の様に夏が残した熱さが残っている様な蒸した空気。仄暗い気持ちは常々頭の片隅にあり、それと同様に高揚する様な気持ちも。その年に初めて見た赤い彼岸花が、罅割れたアスファルトの片隅に咲いていた。まるで、命を燃やし尽くす夏の暑さを吸い込んで、真っ赤に咲いていた。彼岸花は咲いているのを見かけると毎年撮影してしまう。
頭の片隅で、もうこの花はあの花ではないと嘲笑する様な声と、
この花ですら、未来においては、きっと眺めないとまた後悔することになる唯一無二の花であると強迫観念が湧いてくる。

既に守る対象を忘れ錆びつくガードレールの白にそれでも赤はよく映えていた。惨い程に綺麗な赤が、ほんの少しだけ寂しく思えた。

既に茶色く土と同化をしていく程に朽ちたガードレールは、無言で時というものの重たさを語る様相。このガードレールはずっと長い年月緩やかに錆びて朽ちてひしゃげていき、毎年入れ替わり、斃れていく花を、降り積もり分解されてはまた積もる落葉をずっと眺めていたのだろう。

アスファルトを突き破る雑草は、よく強いものの象徴として語られる。その雑草はここに生えることを望んだだろうか。或いは役割を終え、朽ちるに任せるアスファルトは草木に囲まれることに何を思うだろうか。そこをかつて歩いた人の想い出は一抹でも残っているだろうか。

未だ咲いていない花もあった。赤を蓄えていつか花火みたいに燃える様に咲いて、そうしてこの花も、今年はもう散っただろう。

咲いた赤が悲しい色だとして、赤は毎年季節が連れてくる。けれども時の中をどれだけ泳いでも、あの赤には二度と戻れない。

今年もちらほらと咲き始めた彼岸花。
その赤をどれだけ探しても、もうあの日の花は咲かないこと。
時を経れば変わるもの、変わってしまうものは居た堪れない気持ちにさせる。それでも最初に見たその花をもう一度見たかった。叶わないと知りながら、嘘でもいいからその花を見たかった。枯れるから美しいと言い切るには、あまりに短く咲いた花。
使われなくなった道も、使われなくなった想い出も、ずっとそこにあるという重さ。

今年の赤も狂った様に咲くだろう。狂った様に咲いて、それから散るだろう。生活環を違えば、同じ時には生きられない。
それでも、何時か繰り返す周期の先、
その時間が、あの日の時間に追いついて、いつか眠る日が来たのなら。
悼む言葉も悲しむ気持ちも要らない。本物でなくていい。一輪でいい。彼岸花を最後の最後はみたい。あの日と同じ色をした、とても良く似た赤い花。それでも違ってしまう赤い花を今際の際に、死出への旅路の手向けに供えて欲しい。例えそれが無意味な間引きであっても。

だから秋までは生きないとね、と嘯いて
何かの間違いで同じ花が咲くかも知れない、だから今年の秋も探さないと、と騙しだましでつないで、
最後までちゃんと生ききったら、
一つご褒美として朦朧とする意識の中、似た色の花があの日の花だと錯覚しながら、騙されながら朽ちていきたい。そんな理想。

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