影法師

その集落跡は、自分が何かについて迷った時に訪れる。

小学校低学年の頃、鍵っ子だった私は遠回りをして下校する癖があった。嫌なことがあると、家に帰らないで公園なんかでずっと遊んでいた。日が暮れて、一人また一人と友人が門限を守りに家に帰っていく。そうして一人になるまで公園に居た。皆に用事がある日は、当時の担任の先生の家に遊びに行くことが多かった。定年退職間際の、旦那さんに先立たれたおばあ様の先生だった。とても厳格な先生で、左利きだった私は良くそのことを叱られていたし、当時から内向的な癖に落ち着きのない生徒だった私が学校で起こす種々の問題行動について何度も説教をされていた。厳しい先生だったから、「怖い」と生徒から疎まれていることも多々あったが、不思議と先生のことが私は好きだった。少なくとも、先生は私の好きなものを否定しなかった。

先生の家はとても古い家で、雑多に物で溢れていた。
昔ながらの遊びが好きな方で、福笑いやすごろくなどをして放課後に遊ばせて貰っていた。炬燵に入り、ミカンなんかを食べて、時々家に帰れない日は満足いくまで遊ばせてもらい、それから送って貰っていた。私が骨董趣味に目覚めたのは完全に先生の影響だった。先生は学校では厳しいけれども、良く冗談を言った。全然面白くはなかったが、暖かかったことを覚えている。

小学校3年生に差し掛かる頃、先生は私の小学校を去った。それが定年退職だったのか、別の学校に転属になったのか、或いは病気などで教職を断念したのか、正直に言うと具体的なことは何も覚えていない。当時の生活があまりにも幼少には重すぎて、記憶が混濁している部分はある。

ただ一つ覚えていることは、先生が去った後の放課後、
遊ぶ友達も居ない日の夕暮れの帰り道が酷く重いものであったこと。
徐々に背の高くなる影法師がまるで、自分を食い散らかす怪物の様に思えた。鍵を開けるガチャリという音と共に、毎晩自分の心が世界から否定されている様な気持ちがした。

初めてその集落を訪れた時は希死念慮の感覚が酷く強かった日だった。丁度、人生において縦断な決断に迷っていた時期で、何もかも投げ出してしまおうと思っていた時期でもあった。貯金は底を尽き、家賃すら払えずに友人に金を借りて、けれども捨てきれない夢があって、色々な人に土下座をしてまで謝ったり、同時に色々とやらないといけないことが積もっていて、本当に帰る実家もなくなった後で、いくつかの自分が人生の中で影響を強く受けた人達から向けられた「死なないで」という言葉への義理立て以上に生きている理由が見つけられなくなっていた時期だった。

嫌なことがある度にトイレなんかに籠って声に出して「自分は大丈夫だ」「自分は強い」「自分は負けない」「頑張れば報われる」「大丈夫だ」「頑張れ」「負けるな」「憎んでは駄目だ」「恨んでは駄目だ」そう繰り返し言葉に出して自分に暗示をかけては、必死に必要なことをこなし、心がすり減っては家に戻って、またトイレで吐いて眠る。そんな毎日。

金もないのに、欠かさず土曜日だけは歩くことにしていた。
そうしないと、もう心が駄目になって、二度と戻ってこれなくなるような強迫観念に追われていた。
そんな折に、たまたま知って歩いて訪れた集落跡がこの集落だった。

そこで見た夕日に染まる牧歌的な風景がかつて先生がいなくなった頃の放課後の帰り道を思いださせるに至った。これはとても逆説的な話にはなるのだが幼い日の孤独の影を見た時に、何故かとても救われた気持ちになったのだ。

先生はいなくなっちまったけど、乗り越えられた。
その後の節々で色々な物を失ったけれど、それでも耐えてこられた。
あの日の夕日は、残酷な位に美しかった。
恐ろしい孤独がそれでも自分を形成した。
失って、失って、失って、そうして初めて「失うもの」を自分もちゃんと持っていたことに気付いた。ちゃんと、自分は人間として扱われてきた。
そう思うに至った。それはあの日の恐ろしい怪物の様な影法師が時を跨いでやってきて、自らの孤独ごと食い散らかしていったような感覚だった。

それからは、少しだけ肩の力を抜いて色々な物事に取り組めるようになった。

何かに迷った時に、ここをはじめ何か所かの大好きな集落跡を訪れる。
そうして思索の中で思い返す。
失ったこと、失っても人だったこと。
もう、伸びる影法師は怖くない。
幼い日の影に会いたくなったなら、きっとまたここに行くのだろう。

そんな、この地域に対する思い入れ。

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