映画のワンシーンと「好き」

自分の中での「好奇心」との向き合い方について、ふっと思ったこと。大体自分用。けれども書いて、外に公開してみたいと思った備忘録。


例えば、映画のワンシーンの様な景色があったと仮定しよう。それは美しい景色だろうか。牧歌的な夏の道、入道雲が空に用水路がサラサラと太陽光を反射させながら流れている。そういう真夏日の昼下がり。自転車でも漕いで、唯々真っすぐに続いていく道の中を風を切って進んでいく。明日には上京をしてしまう誰かと二人乗りの自転車は駆け抜ける。そういう甘酸っぱい空気の中に隠し味に一抹の不安なんてものがあれば、それが映画のワンシーンだろうか。

それとも、
ある薄暗い集合住宅の一室、片づけられずに積まれた空き缶、その飲み口では煙草の吸殻が悪臭を放っていて、それから水垢で少し白く曇った鏡。日めくりカレンダーと、辻褄の合わないTVの今朝のニュース。床はそう、日焼けした畳。窓のサッシには埃が溜まっていて、窓の外からは地域の小学校の下校時間を知らせる放送が流れている。赤いランドセルは、しわくちゃで、何年も前に一度だけ受賞した、小さな賞状だけが勲章の様に壁に飾られていて、そこにもやっぱり埃。これは記憶に残っていた映画のワンシーンだった。

或いは、ある別荘地、唐突の来訪者は意地の悪いゲームを仕掛けてくる。
それは人間の醜悪な悪意を詰め込んだ様な、嫌な描写が続く。
最後は掟破りの大どんでん返し、見ている映画のジャンルが唐突に変わってしまう様な劇的な場面の変遷も、やっぱり映画のワンシーン。

一義的に「映画のワンシーン」を語れば、恐らく最初の景色が正解なのだろう。けれども、密室で起こる遺体処理も、閉ざされた山荘で起こる悪意に満ちた事件も、或いは地底湖で、宇宙で、刑務所で、全部全部映画のワンシーンではないか。そういうひねくれた事を考え出すと、私の映画のワンシーンは何処にあるのか、行方不明になる。

吸血鬼の少女に、血液を供与する為に事件を巻き起こす気弱な少年も、
離島のレストランで華々しい経歴に疲れて猟奇事件を巻き起こす気難しいコックも、
刑務所で鼠と友達になる冤罪者も、
自分がいつしかアンドロイドだと気付いてしまった少年も
全部が全部映画の登場人物だ。

これは別に映画のワンシーンという表現が画一的になりがちなことに対する批評を述べたい訳ではない。ただ言葉の意味するものの多義性を意識し、自覚した時に、発散していく選択肢の中で、迷子になってしまうという話。

●●が好き、という文章を私は良く使う。しかしそういう文章には後ろ向きな願いが込められている。確かに興味をそそり、その上で自分の過去であり、体験と結び付けたり、或いはとても荘厳であったり偉大なものに圧倒され感動をしてみたり、そうやって心を揺すぶられる景色に対して、好きという言葉を用いる。けれども、好きとは実に多義的で、ともすればその言葉の帰結する先の破滅的で自暴的な光の断片を、私は確かに自覚している。

だって映画を見たくなる時、確かに私の心は荒んでいて、
嗚呼、今日、この日に映画を見なければ、きっと明日はないのだろうという追い立てられる様な絶望的な気分で見るのだもの。とても健全とは言い難い。そういう気分で見る映画は記憶に残る。
それが名作であろうと駄作であろうとも。

それはつまり「好き」という言葉とは最も遠いアプローチな気がしなくもない。そもそも「好き」という言葉に対して、懐疑的ではある。好きとは何ぞと問われた時に明確に定義を敷いて、理路整然と語る言語を持ち合わせていない。好きという言葉は一種の感情の群体の別称に過ぎないのだ。

例えば、虫は虫だろう。
けれども、その虫は鱗翅目だろう。
その鱗翅目は、スズメガ科だろう。
そのスズメガは、ウンモンスズメだろう。
けれども、虫は虫だろう。

「好き」という属性に対しての解像度を上げ・細分化し仕分ける行為に長年腐心してきた様に思う。その景色の何が好きで、どうして好きで、そのどうしてに伴う文脈は何なのか、そういう内向的な方向に振り切った「好きだ」という感情の探求。

これはもっと言えば、「好き」という言葉を何故、深追いするのかという根源的な問いに派生する。これについては明確に自覚がある。私は世に遍く「好き」という感情に信仰心に似た感情を抱きながら、同時に自分が何かを「好き」だという感情が、許し難いくらい嫌いなのだろう。
全くもって的外れで、烏滸がましい感情だと思う。それはもう、嫌いで嫌いで大嫌いで、一周回って好きに見えるくらい嫌いなのだろう。だから、自分の中に沸き立つ好きの感情が気になるのだ。そして、「好き」だと思うものに、相対した時に、自分のことをもっと徹底的に嫌いになれる気がする。
だから好きをもっと、より過激に濃密に、心が枯渇しない限りに探求しようとしてきた。言ってしまえば、風景や映画、漫画や小説、全部の好きが向かう先は自暴自棄な恋の様な感情なのだろう。
そう、思ってた。

最近、ご縁が重なり色々な同好の人と話す機会に多く恵まれた。
当たり前の話だが、それぞれにそれぞれの好きの形態があり、
ポリシーがあり、主義主張があった。
同じ好きなものを追いかける中で、自分とは違う、けれど明確に芯を感じる様な人と関わることは、とても勉強になる。
そして、その全てが楽しかった。
楽しかったことに、自分自身とても驚いた。
そんな中で、思ったのだが、
小難しいことを除いた時に、私は絶望という発火点が無しで、
普通に気分の良い日に、
普通に肩の力を抜いて、
映画を見てみようと思った。

コンビニでポップコーンを購入してきて、塩を追加で振ってやって、
飲み物はお酒じゃなくてコカ・コーラ。
部屋は暗くして、自宅を映画館の様に妄想を掻き立てて。
そんで、何も考えずにジャケットで気に入った映画を見てみた。

その映画が素晴らしい名作ではなかった。
話はどこか平坦で、俳優の演技も嘘くさい。
けれども、けれども、映画を見ていて楽しかった。

ラストに島が燃え盛るなんて展開、陳腐なのに、
何度も使い古された表現なのに、
全然、響く内容なんてなかったのに、
それでも映画を見て 「楽しい」と思った。
その好きは観客的・消費的な好きだろう。
これはこれで悪くないものだと再認した。

きっと私は「好き」という言葉の多義性の、ほんの上澄みだけに触れて
全てを知った気になっていたのだろう。そこの奥の深さを再認識した。
きっとめんどくさい性格傾向をした私はまた複雑に好きを考えてしまうのだろう。

けれど
「好き」だから好き。
時には享楽的に、消費的に、刹那的に、観客的に、
そういうシンプルな好きも同じ様に大切にしたいと思った。

忘れない様に、備忘も含めて書いておく。
折角なので最近それこそ個人的にある映画のワンシーンを思いだした、
ある集落跡の風景を載せておく。














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