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フィクションは間違った人間を書ける――映画「トラペジウム」とローティ「偶然性・アイロニー・連帯」

映画「トラペジウム」が、すごいことをやっている。見終わったあと「よくこんなチャレンジングな作品が作れたな」としみじみと思ってしまった。

物語において、主人公は「共感できる人物」あるいは「憧れの気持ちを抱く人物」であることがベターだ。もちろんそういうキャラじゃなくてもいいのだが、そうでないと読者が離脱しやすい。エンタメならなおさらだ。

しかし「トラペジウム」は、明確に「欠点があり、性格が悪いところもかなりある」女の子の、欠点と性格が悪いところを描くことを目指しつつ(その「悪さ」に批判的な目線は飛ばしつつ)、さらにそこから「人の悪い部分は、他人にとっては悪いところとは限らない」というところまで描こうとしている。

ミステリでいうと「信用できない語り手」に近い。最近のフィクションだと「怪物」や(ちょっと前だけど)「何者」を思い出した。

「トラペジウム」は元乃木坂46の高山一実が書いたアイドルもの小説を原作にしていて、基本の筋もキャラクターの基本設定も一緒のはずだが、小説版と映画版はだいぶ印象が違う。原作では物語の8〜9割の部分で主人公はアイドルデビューを果たすものの、他メンバーの相次ぐスキャンダルやメンタルブレイクで一瞬で解散になる。映画ではアイドルデビューがおそらく物語の半分くらいのタイミングで設定されていて、戦略的な行動により夢をつかみかけた主人公と、いつの間にかアイドルになっていたほかメンバーの温度差が比較的尺を割いて描かれ、避けられない崩壊につながっていく。

どちらがいいかは好みにもよるだろうが、映画版の構成のほうが私は好きだ。映画版では、ミッドポイントで主人公に対してこのような質問がされる。「どうして、オーディションではなく、こんな回りくどい方法でアイドルになることを目指したのか?」。このクエスチョンによって、前半でうっすら主人公が隠そうとしていた自分の欠点――彼女一人ではアイドルになれない、アイドルになるには何かが足りない、と彼女自身が自分に対して思っていることが明示される。そしてその質問によって、アイドルになったあとのメンバー間の確執がよりくっきりしてくる。

そのあとのロジックもかなりいい。主人公の欠点によって、崩壊することになったアイドルグループ。でも、じゃあ主人公の欠点を、ほかのメンバーはどう捉えていたのか? その結果主人公がはじめて心から感じることになるのは、「他人」というものの存在だ。そこを際立たせるためにも、前半の主人公は、人を人と思わず、踏み台のように扱っているほうがわかりやすい。

とはいえ、映画版は原作と同じメッセージ――アイドルになろうともがく自分を今なら肯定できる、というところに落ち着くので、納得しきれない観客がいるのもわかる(この場合の「納得」は、感情面でこの結論にいたるまで主人公を肯定できない、というニュアンス)。そして実際、それができるまで積み上げができているかというと微妙なので、見終わったあとの感覚が賛否両論なのもわからないでもない。

(このあとのブロックは、映画「トラペジウム」から連想したことになります)

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