幼少期の信仰②


はじめに


幼少期の信仰について。
裕福な家庭にいて、なぜ尼になりたいほどの信仰を持ったか。


『私の教祖』から

『私の教祖/中山慶一』
「御信仰」(P.100〜113)より要約すると

教祖の生まれ育った家は、お金に恵まれ、物に恵まれ、家柄に恵まれた何不自由ない家である。そういった環境で、常に人からちやほやされて育てられる子どもは、わがままいっぱいに人の苦しみなどに全く理解のない人間になって行くのが世の常である。
しかし教祖は、

この上もない深い慈悲と同情の持ち主であられたばかりでなく、熱烈な信仰者として成人されたのである。ここに私は教祖の魂のいんねんを拝し、豊かな宗教的天分を仰ぐのである。

P.102

教祖の境遇がこの上なく恵まれていたのに比べて、当時の一般農民の生活は、まことにみじめなものだった。士農工商の階級制度は、今日の私達には想像もできないほどひどいものだった。

「武士は人間、百姓は人間でない」と農村の人々はひどい扱いをされた。

教祖幼少時代の村人たちが、まことにみじめな生活にあえぎながら、無気力となり、又互いに協力し助け合うことも知らずに、暗い殻の中に閉じ籠っているような暮らしをしていたのも、実に封建制度という誤った政策によって長年の間に強制されてきたものであった。

P.107


 教祖は足を一歩戸外に踏み出すたびごとに、常にこのみじめな百姓たちの生活を目撃していた。わがままいっぱいの世の常の子どもなら、周りのみじめさはかえってそのわがままを助長しただろう。しかし、教祖の精神はそうするには余りにも思慮深く、慈悲の心に厚かった。自分一人が恵まれて周りがみんなみじめである。その違いがはなはだしいだけに、そのあわれさが強く教祖の心を痛めた。

「どうしてこの人たちの生活はこんなにみじめで、恵まれないのだろう。気の毒なことになあ・・・」
これら周囲にある百姓たちの生活は、見るたびごとに幼い教祖の胸を痛めた。
 さらに悪いことにその人々の間には、互いに心から打ち解けたところなどは少しもなかった。互いに助け合うことはおろか、相手の心を探り疑い合っているような冷たささえ感じられた。

これは単に大和に限らず、封建時代を通じての全国的な民衆の気分であった。













まとめ

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