おぢばを歩く


夜の天理の道をおやしきへ歩いた。西参道から入っていく。参道はコンクリートでタイル状になって舗装されていた。かつては両脇に提灯がずらっと灯りを灯したが、今はもうない。外灯が等間隔で道を照らしている。5分も歩くと道は石畳に変わり、すぐに砂利になる。広大な砂利の敷地の中心に神殿があった。25日の夜はよく神殿の付近を歩いた。普段よりは人が多く、明日の祭典にむけて活気の高まりを感じる。それでも神苑一体は落ち着いている。夜の静かな神殿は心がしずまった。外灯に照らされる石畳の光は幻想的だった。夏の日に半袖一枚でのんびりと歩きまわるのが好きだったが、今はまだ夜は少し肌寒く一枚羽織って歩いた。

「天理教教会本部」の看板が南礼拝場の外のところから見えた。本部に勤務していたときはよくこうして歩くことができたが、今は帰ってこられる日も限られている。小さい砂利が敷き詰まった境内地を歩くと、一歩一歩にざっざっと足音がする。南礼拝場の方へまわった。南礼拝場が建築されたのははもう百年近くも前だ。入り口部分の板の間や階段や廊下の木は黒ずんでいる。中央には大きい障子が開かれていて神殿の中が見える。六角灯の照明がぼんやりと暗い神殿を照らしている。入り口の階段で、眠たそうな境内掛が「おかえりなさい」と声をかけてくる。会釈して靴を脱いで中へ入った。真ん前に大きな「よろづよ八首」の掛け軸がかざってある。あれは松村吉太郎先生の書かれたものらしい。その文字には熱き信仰の魂が宿っているようである。障子で囲われた殿内には一面に畳が敷かれている。中心部は大きい木の棒を結界として仕切られている。黒い教服を着た詰員が四人、結界の中で正座している。中へ進み神殿の中心に据えられているかんろだいを一目見た。古い木が多い中、真新しいかんろだいの木は白く輝いていた。参拝を終えると回廊へまわった。おやさまのところへ、教祖殿の方へ向かう。回廊は一周が800mあり、参拝して一周すると小一時間はかかる。ちらほら人とすれ違いながら、静かな回廊を歩いた。

神殿で参拝をして、拝をしているときは思考が整理された。普段は考え事をするにも、思考があちこち飛んでいってまとまらなくなってしまうことがある。だが神前で、4拍手をして、拝をする。ご挨拶したりお願いや思案を巡らせる。そうすると、思考が神様と繋がる感じがした。思考の道筋があれこれ飛ぶことなくはっきりとした。気づくとずいぶん長い時間拝んでいる。

26日、祭典を終えて、時間はお昼の12時少し前になった。中庭の人だかりから西の方へ抜けて、記念建物を見に行った。境内地一帯は祭典後の人で溢れかえり騒がしいが、ここには人の目や口はなくひっそりとしている。ちょうど人が見物を終えて出ていくところで誰もいなかった。中へ入っていくと、すぐ中南の門屋があり、隣につとめ場所の建物があった。向かいには大きな庭がひらけていた。晴天の中、陽気な日がさす池や草原やプールがあった。気持ちのよい初夏の風に、青々とした草木がさわさわと揺れていた。揺れる音とともに小鳥のさえずりが聞こえる。風になびくプールの水面を太陽がきらきらと光らせていた。池には鯉が何匹か岩の間を泳いでいる。池のそばには、おやさまのためのものか椅子があった。上は屋根で覆われていてちょっとした休憩所のようになっていた。おやさまもここで庭を眺めておられるだろうか。

つとめ場所は、立教から25年目、飯降伊蔵先生によって献納され、おやさまはここを居場所として約12年過ごされた。それから中南の門屋で8年、そのあとは御休息所で住まわれた。その間、筆に書き尽くせぬ道を通ってきたと言われる。寄りくる人はおらず、ただおやさまとその家族だけというときがずいぶん長くあった。何年もの時間である。お礼にひとりふたり来るだけであった。おやさまはその何も無いと見えるときでも「親神様が結構にお与え下されてある」と満足なさっていた。子どもたちと小さな火を囲み、編み仕事をひとつひとつ続けていかれた。無いなかも親神様のご守護に喜び、いつも親心はあつく、ときには神の威厳を示し、また無欲に目の前の仕事に懸命に取り組まれた。そうした1日を積み重ねられ、この小さな家族からようやく次第に人が集まって来たのであった。

つとめ場所の隣には中南の門屋があった。門に併設された10畳の部屋がおやさまの居られた場所であった。このころ、この中南の門屋におられたときに、おやさまがただの田畑だった外を眺められて、この辺りは宿だらけになる、おやしきは八町四方になると見通されていたという話がある。おやさまはそうなることを知っておられた。今からするとまだまだ何も整えられていない草深い時代である。反対攻撃も激しかった。大変な思いがあっただろうか。拝察するに、おやさまのお心は、その雑然とした中を楽しんで通られていたのではないだろうか。ひとつひとつのお礼にくる人や、尋ねくる人を、人間の親として嬉しく思い、喜んで通られていたことが拝察される。

記念建物を見終えると、北大路を渡って、お墓地の方へ向かった。古い農家の並びを抜けていくと、豊田山舎のお墓地がある。階段を上まで上がった高台におやさまのお墓があった。若い学生二人が十二下りの手踊りを踊っていた。砂利が敷き詰まった高台を歩いてお墓の前までいくと、右側に大きい石の柱が立っていて漢字で名前が書かれている。お墓は柵で閉じられていて、前に石の賽銭箱と両脇にお花を入れる水さしが立っていた。お花は水さしにささっているものと余分に横にもあった。4拍手で参拝をした。うしろを振り返ると、おぢば周辺、おやしき一帯を一望できた。巨大な神殿、教祖殿、祖霊殿があり、その周りを詰所や学校として使われるおやさとやかたが四方に囲む。道路は整備され、おやしきを中心に周りにはたくさんの詰所が建つ。おやさまお一人、農家のひとつから始まったこの信仰が、ここから見える一帯に街をつくっているのである。おやさまの教えを信じ、信念に共感し、生き方に感動した人たちが大挙して集まっている。今現在も、おやさまは存命同様におはたらきくださる。深い親心でお見守りくださる。おやさまはこの高台のお墓地から、天理の街を眺められお喜びになっているだろうか。もしくは、そのお心は、小さな火で編み仕事をされたころと変わらないだろうか。


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