日記 或布教師

その布教師は29歳で、天理教布教の家岡山寮を出て、その地に1年残ると心を定め、単独布教していた。

その生活は最初の頃は、布教の家の枠に則った。
朝4時台に起きて日中布教に歩き、夕方に帰ってきて夜22時前には寝るという生活。しかし布教寮生活の後半ごろには、おたすけの相手が複数人になっていた。深夜帯にお願いつとめをすることも多くなった。だんだんとその枠の中で不規則で多忙になっていき、睡眠時間は削られることが多かった。

他の寮生も、お願いつとめを深夜0時からとか、朝4時から神殿掃除の前になどと、寝る時間を削ってすることも多く、深夜に神殿で寝落ちしている人もいた。おたすけに夢中になっているときには、おたすけ相手に"何とか良くなってもらいたい"という思いだけで、自然と朝には目が開いた。

その布教師の寮の部屋には、色んな布教師の本が置かれてあった。なかでも『中川與志』は、かなり文字が書きこまれてあった。「僕は中川よし先生のように、昼も夜もなくおたすけに奔走することが夢だ」と布教師は言った。
「中川よし先生は、20代の頃から、おたすけにたくさん歩かれた。朝は神前へお供物だけすませると、自分は朝ごはんをゆっくり食べるなんてこともせずに家を飛び出し、自分を忘れておたすけに走りまわった。おたすけ先が3、40軒、何キロにもわたってあって、全てまわっていると深夜2時ごろになったそうだけど、その翌日もまた朝早くに出られる、ということをずっと続けられ、たくさんの人をおたすけされた」と寮生との練り合いで話した。

布教の家の1年の期間が終わり、"単独でやらせていただく"ということになってからは、次第に自分の時間はないほど忙しくなっていった。しかし忙しくとも、夜遅くなろうとも朝四時台に起きる習慣は続けていた。朝起きは死守した。まだ外は暗く街がしんと眠っている中目を覚ます。起きると洗濯してあった綺麗なワイシャツを着てスラックスを履く。忙しくてもできるだけ清潔さは保つようにしていた。お供えものをすると、まだ夜明け前の白む空気の中、駅までの畑道を借家から歩いた。ネクタイを締めハッピを着て駅前で12下りの手踊りをつとめた。始発に乗る人たちしかいなかった。これは毎朝の日課になっていた。教祖を思い、教祖のおともでつとめさせていただくことで、高くなりがちな心を低く落とすことができた。また一日の活力がわいた。
それから駅前のトイレ掃除かゴミ拾いをした。戻って身支度を終えると落ち着く間もなく出発した。だいたいいつも朝一からおたすけ先へアポイントを入れていてそこへ向かった。アポイント先が数軒終わると個別訪問にまわった。個別訪問はできるだけ多くの人数に会うことを心掛けた。

訪問スタイルは物量作戦で、大阪で営業をしていたときのやり方だった。その営業会社では、同業他社よりも2倍も3倍も当たって成果を上げる方針で、若くも意識が高くて高収入の人たちが集まっていた。その布教師は、営業で最初ほとんど契約を取れず苦闘した。社長から「頑張ってるって言うけど、じゃあ人の10倍努力してるか」と言われた。それならばと、毎朝12下りをつとめることで、その日1日をにおいがけの精神で営業にまわるというスタイルで結果が出はじめた。この営業を通算2年やり、ここでかなり苦い思いをしていた分、布教の家の個別訪問のスタートは順調だった。においがけに歩くにも、営業の頃のように、爆裂にハードワークしてやるべきだと考えた。周りの寮生には狂気じみたやつだという目で見られた。


朝のおたすけ先のアポイントが終わると、一軒一軒、個別訪問にまわりはじめる。ピンポンを押す。人が出てくる。
「こんにちは。天理教の━と申しまして、自分自身たすけていただいたご恩で、人だすけに、一軒一軒まわらせてもらってます。何かお困りごとや、病気や体の不自由なところあれば、聞かせていただけませんか?」
たいていは困っていることを言ってくれる方はいない。

「病だすけのお祈りだけでもさせていただいてまして」と食い下がる。たいていは断られる。

「ありがとうございます。またよろしくお願いします」と笑顔で退がる。

これを繰り返し続ける。ひたすらに数を当たり続ける。その中に、時々たまに、おさづけをさせていただけることがある。「あしきはらひたすけたまへ━」一心に自分のほこりを払い真実心でつとめさせていただく。
一度おさづけをさせていただけると、少し話を聞いてもらえる。神様の話を取り次ぐ。自分がたすかった話、かしものかりもの、元の理、おやさまのひながた、いんねん、、布教の家1年間で色んな話の型はできていたが、たいていは自分がたすかった話をした。
「僕は仕事がうまくいかなかったときに、天理教の教えにたすけていただいたんです。・・・そうやって人をたすける心を持つことが、神様の思いに適う心遣いですので、どうぞ、人をたすける心、思いやる心をもって、またそういう心遣いを学んでいただきたいと思います」

「また来させていただきます」と言って笑顔で退がる。

再度訪問するときには、不在だったり、居留守、「もう来ないでくれ」と言われるなど、いろんな場合がある。その中で、またおさづけを取り次がせていただける場合もある。そしてまた少し話をする。相手の話を聞いたりと、場合によっては1時間ぐらい話をする。そうしておたすけの通い先となっていく。

岡山は家が密集している場所は少なかった。家と家の間隔がかなり広いところや、田んぼや畑も多かった。次、次、次、次、と集中した意識を切らすことなく当たり続けるスタイルで、ドアトゥドアの間隔が広いところもリズムは切らさず、雑念は入れずに当たり続ける。ただ心をぶらさないように、お腹にぐっと力を入れて気を張った。集中して当たると決めた時間は集中し、止まることはなかった。何も考えずに当たる、反省は帰ってからすればいい。現場ではただエキサイティングし、期待はしないで当たっていくだけだ。こっちから何か少しでも元気を与えられればいい、という挨拶運動のようなつもりだった。

マンションであれ、一軒家であれ、密集地であれ、過疎地域であれ、一定のリズムで集中し続ける。おやさま、おやさま、おやさま、おやさま。心の中で念じる。おともで歩かせていただく。人と話せるかどうか、困っている人に会えるか、少しでも元気を与えられるか、夢中になって歩き続ける。おさづけをさせていただける人に出会う。狂ったように、熱狂しておたすけに当たる。狂気じみている。世界の99.9%の人はこういう行動はとらない。天理教を名乗り人の家を訪ねてまわらない。見返りを求めず人たすけを願い出ない。道ゆく人は、必死に天理教の話を玄関口でしている布教師を見て不思議に思うだろう。エキサイティングしてまわっている姿は、狂っているように映るだろう。ただその熱狂が人を巻き込んでゆく。そしてその布教師は、人に対しても社会に対してもそして神に対しても、一つも悪いことはしていない。これは100%善の行いである。布教師はそこに自信を持っていた。

熱中しているとすぐ時間が経つ。ひと息休憩し、また少し当たるともう夕方で、夕つとめに帰る時間になる。一日に当たれる数はそんなに多くない。年単位で考えると遠大だが、目の前の一軒一軒、集中する一時間、おさづけの一回、一人の人に一所懸命に向き合い続けることしかできない。もちろん断られる数の割合の方が圧倒的に多い。しかし、その中でおたすけ相手と出会うことを信じて歩き続ける。おさづけを願い出続ける。通い続ける。そうすることの積み重ねで、それを長く続けていくことで大きい理になってくるのだ、と信じた。

ある程度歩き慣れた頃から、断られることよりも、本当に困っている人がおたすけを待ってるんだ、ということにフォーカスしていた。実際にそういうおたすけ相手と出会っていった。どこにたすけを求めたらいいか、どうしたらいいかわからず家で1人で苦しんでいる方がたくさんいた。個別訪問でしか出会えない方々だった。そういう方がおたすけを待っているということがわかっていき、多くの家から玄関先で断られ続けることも、ときに心ないことを言われることも気にしなくなった。

あるとき、その布教師が喫茶店で人と話していると、店内で高齢の男性が急に倒れたことがあった。店内は騒然とし店員が救急を呼んだ。その布教師は駆け寄り、店内にいる人に向けて言った。
「私は天理教の布教師です。救急車が来るまでの間に、今からこの方に神様のご守護を取り次がせていただくお祈りをさせていただきます。みなさまどうか、この方のお身体の回復を一緒に祈っていただけたらありがたく思います」
おさづけを一心に取り次ぎ、店内にむけお礼を言った。

また、寮生の間で、あそこの家は天理教嫌いで騒ぎになるから行かないほうがいいとされていた家があった。他の寮生は水をかけられたりしていて、みんなが行かない家があった。そんな中その布教師はそこへ訪問した。罵声を浴びせられ、突き飛ばされ、そのまま二階にあったその部屋から下へ落ちてしまった。幸いにも落ちた場所に花壇がありクッションになっていた。その瞬間、布教師は「ああ、ありがたい。命がある」と思った。怪我ひとつなかった。その家は通い先になった。


その布教師は、布教の家にいたときに、名のある先生から話をしてもらった。この話がずっとこの布教師の布教していく上での芯になっていた。━━布教に歩くうえで、信者をつくることが目的だとでも思っているのか。ただ自分の心を神様のお心に近づけてゆくだけだ。神様と自分とか同一化するぐらいに、自分を忘れて、あほうになって、ただ神様の手足としておたすけしてゆくのだ━━

寮生にも、すさまじい布教する人がいて、刺激をもらっていた。その人を目指すべき人だとして敬っていた。その人は、天理教校本科を出てから本部勤務を3年間つとめ、世間のことを知るために世間働きを3年間した。その給料はすべてお供えにと親に渡し、そのうちから多少の小遣いをもらっていた。その後に、上級教会である布教熱心な教会に住み込みで青年として4年間、それから岡山にいるわずかな信者を繋ぐべく、布教の家へ来ていた。その上級教会の部内には、人が百人近く集まる教会がいくつもあった。その人はこれまで本部にお連れした人数は百をこえ、お供えの総額は数千万円にのぼった。

その人は朝早くから夜遅くまで、その寮生活で自分の時間など露ほどもなく、24時間の全てを、においがけ、おたすけのために注いでいた。どれだけ夜遅くまでお願いつとめしていても、朝の神殿掃除に遅れることは一度もなかった。話し言葉は丁寧で、切羽詰まった寮生にはユーモアを見せ、自分のことはいつも完璧にこなした。一部の隙もない人だった。その人は世間働きの経験から、今の教内の行動力や努力の少なさを憂いていた。その人は、もといた会社で優秀な成績をおさめていて、社長から飲みの席で色んな話を聞かせてもらったと言った。「事を起こすのに、時代や環境というのは全く関係ない。そういうことのせいにしてはいけない。ましてや他人のせいになんかしてはいけない」その社長は言葉違わず、実際にそうやって会社を広げてきた人だった。

その人からその布教師は色んな話を聞かせてもらった。寮生との練り合いでは、ある高名な昔の本部の先生の一節を引用して言った。

「青年が自己を自ら欺き、老成した先輩の風に習うて、深底より湧き来る活動の力を消して、あまりに早く信仰のあるらしく行動するのは、決して賞すべきではない。それとも実験に実験を重ね、幾度か生死の間に出入りし、いつとはなしに鍛錬されて円熟してきたのならば、少しも厭味もないが、無理に強いて、ない信仰をあるらしく語り、もしくは行うのは、ずい分気ままな見苦しいものである」

「教内において青年が価値を認められるのは、決して信仰が確立しているからというのではない。無邪気な横溢した勇気をもって、信仰を完成して行こうという努力そのものに認められるのである」


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