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意志は自由であるか


『増野鼓雪の信仰と思想/西山輝夫』の一節から
まず、西山氏の説明が

心が澄むというのは、自分の努力、自分の意志で可能であるか。この意志の自由について、鼓雪は否定的であった。

とあります。

そして、鼓雪の文章に入っていきます。

意志は自由であるか

今日多くの人々は、意志の自由を従って行為の自由を認めるのであるが、本教について言えば、その立教の当初、即ち教祖在世中には、大体においてこの心の自由を認めていなかったように思われる。・・・
従って今日盛んに解かれるほこりに対するざんげのごときも、昔はあまりやかましく言わなかったようであって、われわれが救われるということは、決して自力的や、また自由意志的な努力によってなされるのではなくして、もっと他人的な、教祖の偉大な人格、あるいは不思議なる力によってたすけられるものであると考えていたのである。・・・
ともかく喜ばねばならぬことも、悲しまねばならぬことも、すべてが因縁である。ただその因縁を通る道すがらにおいて、教祖あるいは教理の力によって不思議にも救われていくのである。自力でなくして他力であるのが昔の考え方であった。

『増野鼓雪の信仰と思想』P.107


宗教が、強い救済力を示しているうちは、他力であり、それが薄れてくると、自力に傾くというのが、鼓雪の見解であったそうです。

自力宗か他力宗か。
意志の自由をめぐる論議は昔からのテーマであったようです。

これを主張しているのが大正時代、
今の時代はますます自力宗の傾向が強いでしょう。


霊的人格者

さらに鼓雪の見解は、

こうした自由意志に重きを置く思想は、人生において因縁がどう顕れてくるかという必然を知らない人々が増えていく以上、やむを得ない。

この必然の理法というものは、霊的生活に入った者でなければ分からない。しかるに現代においては、この霊的生活をなす底の人々が非常に少ないがために、今日のような自由意志論の全盛期を致したものであると思う

同P.108

「霊的生活に入った者」とはどういう人のことでしょうか。
現在の本教では耳にしないワードですね。
鼓雪自身、29歳で本部員登用されていますが、それ以前に、そういう生活に入った時期を認めています。


教義がじゅうぶんに整備されていない当時の時代の自由な空気もありますが、鼓雪の信仰スタイルは、「教祖の教えを教派的に造りあげ」るのではなく、自分個人の心を、神に、教祖に近づけてゆくという目的にありました。

他にはたらきかけてゆくというような現在の天理教的なことよりも、世にある様々な宗教が目指すような、己の心を修業し、神に接する境地に到ることや、いかにして神に相まみえるかということに重きがあったように思います。

理法の道から霊の世界へ進んで行くのは実に困難な道である
ようやくたどり着いた神秘の世界では、
霊と肉との不調和を見出すことがしばしばあり、宗教家が往々にして狂気になるのはこのためである。」

ヒンドゥ教のガンジーは
「わたしには肉と霊の双方を求めて生活はできなかった」と禁欲主義を取ります。


さまざまな宗教が、神秘の世界にたどり着くまでには、進めば進むほど荒野をひとりゆくような孤独があり、鼓雪自身も、驚喜も、自殺の危機も、狂気の寸前も通ったのであろう。

こうしたけわしい道であるがゆえに、この最後まで行くのは少人数の人に限られており、大抵の人はある程度のところでとどまる。天理教においてもまた然りである。

同P.112



最後までありがとうございました。


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