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私の教祖 ②

はじめに


今回は中山慶一著の『私の教祖』から。

まだ本編の教祖の生涯ではなく、
前提の時代背景の話からになります。


教祖とその時代

凡人は時流に流されるが、偉人は時代を超越するといわれる。
『私の教祖』P.30

と、教祖のご在世の時代について書かれています。

教祖のご在世当時の時代背景としては、広く知られている通り、新宗教に対する迫害・干渉の時代である。

しかし教祖は、神一条の理を一歩も曲げることなく、時流を抜き、高く時代を指導した。

教祖のみちすがらは

時代社会を超えた永遠不変の真理である未代の心定めをお教え下されたところにその真面目(しんめんぼく)がある。
P.34



心定めが第一


宗教に何を求めるか。についての記事では

人が宗教に求めるものは「自分をコントロールする方法」であり、お道で教えていただいている自己統制については「おつとめ」「いんねんと戦う心定め」なのではないかと考えました。


その「心定め」について。

未代の心定めであり、教祖の言葉でも有名な一節で

「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」
『稿本天理教教祖伝P.320』『私の教祖P.33』


このお言葉の局面では、法律があるから、人が集まっておつとめをすることができないということがあったので、そういった人間に対して、

「月日があってこの世界が存在して━━、法律があっても、心定めが第一だ」と

この世界の元はじまり
と、法律や弾圧の中でも、心を定めることがまず第一だという信条をお伝えくださっているものです。

しかし、何も弾圧の中という局面になくても、「心定めが第一」というのは普遍的に言えることだと思います。

「心一つが我がのもの」という世界において、その「心」を定めることによって、身の回りの物事が進んで行く、運んでいただけるということ。

これは実体験としても感じますし、「心定め」をされたことのある方は納得される方も多いのではないでしょうか。


「生涯道一条」と心を定めた途端に、身上が回復したとか
「もう妻に文句は言わない」と心を定めたら、腹が立たなくなったとか
においがけに出る際「今日は◯人の人におさづけを取り次がせていただく」と心定めをすると、実際に◯人にできたなどという数字の面のご守護もあると思います。


最後に


教祖のみちすがらが

「時代社会を超えた永遠不変の真理である未代の心定めをお教え下されたところにその真面目がある」

という、時代に屈するなき御態度のすごさと、不変の真理という心定めを提示されていることから、自己統制のためには、「心定め」に依って自分自身や物事を運ばせていただくということが大切だなと、改めて感じました。

心定めとは、神一条に基づいて、覚悟すること、決心することであります。

ただ当たり前のことでも、それをやり続けると決心すること。

難局を突破するために、覚悟を決めて、照らしていただいている道を進んでいくこと。

身を持ち崩さないように、自分のルールを決めて、慎重に、心に隙をつくらず定めること。

こういったことを、ただ自分個人的に目標を立ててやるのではなく
神前で、神に誓って守り抜くというのが心定めです。

普通の目標と違って、神に誓うということの重さがあり、その分、堅い決心もしやすいかもしれません。
また、神様に運んでいただくという、自分の力以上のこともできてくるかもしれません。

たとえば、朝早く起きるという心定めをしたら
早く起きれたときに、「起きさせていただいてありがとうございます」という身体のご守護をして下さっている神様の感謝、

1日の終わりには、「また明日も朝早くに起きさせていただけるように」と心定めの確認と、お願いを申し上げることで、運んでいただけやすくなります。


「心定め」に基づいた自己統制こそ、お道で教えていただいている不変で万人の人間の生き方ではないかと、考えさせていただきました。


最後まで、ありがとうございました。

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