見出し画像

最初のページだから字が綺麗

小学生のときに一度だけ交換日記をしたことがある。元々わたしは参加していなくって、4人のうちの1人が抜けたから、わたしが代理メンバーとして補給された。交換日記に途中参加ってある?そうまでして4人を守ることが大事? 交換日記に招待されたとき、新メンバーとして白羽の矢を立てられた嬉しさよりも、友だちの間で交換日記があったこととそのスタメンに選ばれていなかったこととが発覚した悲しさのほうが上回ったことを覚えている。だから、交換日記は寂しい思い出だ。そんなわたしが大人になって、14年ぶり2度目の交換日記に取り組もうとしている。今度は自分が発起するのだから寂しくはない。

わたしたちはあまりにも忙しい。1日8時間(をしばしば超える)の労働が続けば、家事をこなし、ちょっと用事を済ますだけで、週に28%の休日なぞ露と消える。本を読もうにも、美術館に行こうにも、時間はおろかそんな体力すら残っていない。いや。本当に体力がないわけではない。身体は動くし、むしろ動かしたい。ただ、気力が湧かないのだ。HPはあるのにMPが足りない。文化的な生活にはMPが必要なのだ。SNSに目をやると短くてインパクトの強い娯楽が次々と出てくる。エンタメの断続的な強い刺激を浴び続けるのにはMPを使う必要がない。あんなに本や映画が好きだったのにパズドラしかできなくなってしまった麦くん(『花束みたいな恋をした』の登場人物のひとり)の気持ちが痛いほどわかる。美術館のほうがよほど疲れないのだけれど、文化的な生活にはとにかく体力がいる。

これではどうも立ち行かない。本を読んだり、話をしたりするのが好きで、それらは暮らしていくために不可欠なエネルギーなんだけど、ときに労働に追いやられて、エネルギー不足に陥ってしまう。せめて忙しない日々のなかでも、友だちが書いた少しの文章を読む程度の余裕は持ちたい。せめて忙しない日々で流れていく自分の気持ちを掬い取る機会を持ちたい。そのために交換日記に取り組もう。麦くんも絹ちゃんとやったらよかったのに。

ところで、この交換日記は「脱社会的」だと標している。この場合の「社会」というのは、「そんなんじゃ社会でやっていけないよ」の文章に登場する「社会」の語用とピッタリ重なっている。短く言えば「社会人」のそれとも重なる。あるときは学校教育によって刷り込まれる、あるときはメディアに映るものを内面化する。この「社会」は単なる人の集まりを指す語ではない(もしそうならどんなにか素敵だったろうが)。そうして構築してきた実体のない「社会」に、非常に多くの人が、人生のある段階で自動的に放り込まれる。どういうわけか、どういうふうにかわからないが、その社会で「成功」している人がいる。彼/彼女らのいう「社会」と、私が獲得してきたそれとは、何か違うのか?違うとしたらどこが?

わからない。「社会」とはまるでわからない。それでも「社会」で生きていくことしかできない。ならばせめて少しでもわかりたい。そのために「社会」を机に置いてじっくり眺めてみる。そのとき、わたしは一時的に「社会」から脱しているではないか!だから「脱社会的」。決して独りで生きていこうとか、非行に走ろうとかそういうことをけしかけているのではない。じっくりと、それはそれはゆっくりと「社会」について考える日記である。

「それってなんの役に立つんですか?」

う〜るさいっ!確かに職業訓練でもない、まして生活が便利になるわけでも、社会の維持の直結するものでもない。しかし、何かの役に立たねばならぬと思うことこそが、社会にどっぷり浸かっているのだろう。そろそろ梅雨の時期だ。わたしたちにこびりついた社会のルールや呪縛をどうか洗い流してくれよ。

ちょっといい醤油を買います。