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労りの喜び

例えば、満員電車。知らない人同士が肌が触れ合うような距離で運ばれている。この時期のそれは暑くてなおのこと不快だ。少しでも不快な現実から目を逸らすと、飛び込んでくるのは広告で、

ムダ毛抜け。痩せろ。こいつが不倫した。いや、毛を生やせ。お金を増やせ。

まったく、嫌な短歌である。

社会で認められるには、環境に適応して生産的でいることが求められる。他人よりも価値を持っていなければいけない。だからこそ、このような社会からの強烈なメッセージは「わたしたちに欠陥を補うための行動」を迫る。そうやって、わたしたちの自尊心を、社会はいともたやすく傷つける。

そんなふうにすっかり疲れたわたしたちへ社会は慰めを怠らない。衣服、旅行、ちょっといいアイス。ちょっとしたご褒美からたまの贅沢まで、「傷つき疲れたわたしたちを癒すための行動」を迫る。

いや、自分で傷つけてヨシヨシしてくるDVパートナーかよ。

これまで自分を労ることは、何かを得ることだったと思う。ただ、そういう労りは結局のところ消費活動に乗せられてしまう。その消費の裏では、誰かの自尊心が傷ついているのにもかかわらず、だ。このままではわたしたちが、わたしたちの自尊心を痛めた場所に加担していくのではないか。

社会は、まるで大きな水槽のようだ。底には宝箱が沈んでいて、我さきにと競争している。ずんずん沈むためにお金を稼ぎ、水の抵抗を減らすために脱毛をする。競争にのめりこむほどに、わたしたちの身体はそもそも水の中で呼吸することはできないことを、すっかり忘れてしまう。そもそもわたしたちは、社会から発せられるメッセージに馴染むようにつくられていないのではないか。そもそもわたしたちが傷つくのは、自分の欠陥のせいではなく、社会のせいなのではないか。これからの自分への労りは、得ることではなく、離れることなんじゃないだろうか。

(社会に仕立てあげられた)欠陥を埋めようとすることから離れてみる。自分を苦しめる人間関係から離れてみる。そうやっていつもの自分を俯瞰して、いつのまにか絡まった社会からの呪いを丁寧に解いてあげよう。帰り道にひまわりを見つけること。デジタル時計の数字が揃った瞬間を見逃さなかったこと。社会が「だからなんだ」ときっと吐き捨てることを、それでも自分が大切にすることは、きっと自分を愛することに繋がるんだろうと信じている。



あ、そうそう。国立科学博物館が運営維持のために寄付(支援)を募っています。
国立の博物館が、運営維持のために、ですよ。絶対選挙行こ。(注1)

「科学を文化に」というのが現在の博物館長のビジョンです。
文化的な生活には体力がいるんだ、と以前書いたんですが、そういう体力を削るのも理不尽な社会だと思っています。わたしにとって、文化的に暮らすことは自分を愛することのひとつです。どうか皆さんも応援してくれたら嬉しいです。一緒に博物館行きましょう(もう一度リンクを貼っておく)。

追記
注1:「国立」と名称には含まれているが、実際には独立行政法人である。したがって、国からのお金で全てが賄われているわけではない。
国から補助金が出ているだろうが、使途に厳しめの制約があると推測できるため、寄付金という(恐らく)自由度の高い財源は、「科学を文化に」醸す一層の手助けになるだろう。

ちょっといい醤油を買います。