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静止(生死)

ある日①(10月7日)
わたしの姉の誕生日。そして、昨年産まれた姉の子ども、わたしの甥の誕生日でもある。母子同じ誕生日なので、誕生日会は盛大になった。わたしたち家族(シックスポケット+わたし)は、彼らが産まれてきたお祝いをした。談笑し、ケーキを食べ、まだつかまり立ちまでしかできない甥(あるいは息子、あるいは孫)を見守った。彼が笑顔になると、周りもつられて笑顔になる。今日はいい日だった。

この日、報道によれば、イスラエル側で少なくとも40人、パレスチナ側で少なくとも161人が命を奪われた。合わせて201人、負傷者は少なくとも1831人にのぼる。それを悲しんだ人はもっともっといる。

わたしたちは今日、2つの命を祝った。誰かが今日、数百の命を奪った。誰かはわたしだ。

戦争は、昔あったもの、だと思っていた。それをきっぱりと否定するようなこの1年間だったように思える。虐殺、拉致、それに対する報復。昔あったひどいことではなく、今ここにある惨劇だ。戦争はよくない。真顔で当たり前のことを改めて言わなければいけない。戦争はよくない。


ある日②
マンサフをつくる。マンサフは伝統的なヨルダン料理のひとつで、ヨーグルトで羊肉を煮込んだものである。

ニュースから流れてくるのは、惨劇や凄惨という言葉。戦争はそういうものだと思う。個別の傷をひっくるめ、失われた命は数字になり、キリのいい数字に整えられる。抽象化されている。具体的な生活は語られない。彼らにとっての日常を少しでも感じ取ろうと、マンサフをつくる。安心して暮らせない、彼らには、彼らに親しみのあるこのマンサフを食べられない。そんな具体的な辛さがある。日常の地獄のなかで、具体的な生活の話をしよう。


ある日③
避難しろと言われる。「安全なルート」といわれ指示通りに避難したら命を奪われる。すでに70人以上が傷ついた。言葉にならない怒りが込み上げてくる。

わたしはわたしがこの数日で書いた文章を見返して馬鹿馬鹿しい気持ちになった。なんと愚かな文章だろうか。人が殺されている。人が、殺されている。これだけで十分だろう。人が殺されている。

行き詰まっても、決して言葉を手放してはいけない。言葉を諦めてはならない。言葉を手放してしまうのは、自分がそれをどう見たいか、それとどう関わりたいか、その主体的な選択を手放すことだから。この地獄で機嫌よく暮らすために、この地獄への怒りを持ち続けよう。理不尽に人を殺すな。

ちょっといい醤油を買います。