見出し画像

観察と断面

このnoteは、映画『君たちはどう生きるか』(宮崎駿監督、2023年公開)の内容に言及しています。


何かを言葉にするとき、わたしたちは物事のある面を否応なく切り取る。わたしはきっと、文字にせよ語りにせよ、言語化に取り憑かれている。何かを言葉にする、それ自体が極めて面白いことだと信じて疑っていない。そう、言語化、大きく言ってこれは「萌え断(サンドイッチなどの食べ物のカラフルで美しい断面を楽しむこと)」である。

サッカーは、手の使用を極端に制限された球技である。

この断面はどうだろうか。広いピッチを駆け巡るスポーツであるサッカーが、急に窮屈に感じる。通常では感じられない、金太郎飴を斜めに、むしろ縦に真っ二つにするような断面。わたしはこれを愉快と思う。

多くの場合、ユニークな言語化は〈観察〉を要求する。対象をよくみて、わかることとわからないことを区別すること、それができなければ言語化することはままならないだろう。ただ水を飲んで、これだけの説明ができるだろうか。言葉にすることを念頭に置いてじっくり味わうからこそ、エンターテイメントとしての説明が可能になるのである。

しかし、世の中のわからないことよ、なんと多すぎることか。観察の限りを尽くしてもなお捉えきれないことばかり。物質があればせめて、なければ、もうお手上げである。前にこの交換日記は「社会」をよく眺めることだと書いたが、お前は本当にわからないな。僕だけがわからないのか?きっと社会にはとある〈ルールブック〉があって、わたしには配られていないのだろうか。はたまた、どこかに置いてきてしまったのか。「これは何か?」「わたしはこれにどうしたらいいのか」。とにかくわからないことが多い。


先月の半ば、ある問いを多く耳にするようになった。その問いは「君たちはどう生きるか」というものであった。ある映画が公開して3日経った月曜日、わたしはその問いと対峙した。

映画を観るときは大抵予告編をみてからいくので、鳥のイラストと「かへっ」だけを引っ提げて映画を観る経験は、初めてだった。
迷い込んだ〈あちら側〉は、飛躍や矛盾すら含み、生死・夢現・善悪が混然となった〈物語=フィクション〉であろう。この映画は、物語(石)を抱えながらも生きていかなければならないのは〈現実〉であるという真っ当なメッセージを、物語を生み出すことに人生を賭した監督が発する、反省と説教の映画なのだろう。映画の要素として、父権の継承と母性信仰を含むことは否めない。ピュアな作家性が故に前時代的な映画になってしまうことは、なんというか、切ないことだなと思う。

というのが、映画を観てから約一ヶ月が経過し、それなりに反芻したのちの、表向きの感想である。


わからない。見終えたあとの困惑をまだ覚えている。今も、わからない。どこに刃をいれていいのだろうか、そもそも切れるのだろうか。どの断面がわたしにとって魅力的だろうか。そんな判断をしていいのだろうか。どうにかこの映画について話せることを探ってみる。「ジブリだ!!」という感触がする。今まで観て(ときに観させられて)きたジブリ映画の原液みたいな映画だった。ジブリの断面。キャラ弁みたいだ。

やはりわからない。次にどこに刃を入れられるだろうか。とりあえず切ってみるか。そんな適当なことが許されるか。深呼吸して、改めて向き合うと、これはわたしの映画ではない、と思えた。これは誰かの映画だ。と思った。全く共感できなかった、というのは言い過ぎだけれど、そもそも分かってもらうための映画ではないのでは、と。それだけ監督のエッセンスが濃いということだ。わたしのような若造には受け止めきれない質量をもっていた。重さがある。まるで目の前に、在る、かのような映画だった。どうせ理解されないだろうな、という諦めとともに、映画が在った。わたしの分からなさを既に監督は見通していた。その通りだよ、分からなかったよ。


わたしたちが暮らす社会には、理解しきれない事象がたくさんある。それらとともに、そんな事象に対する救済策も山ほどある。その中には陰謀論やニセ科学をはじめとした誤解や欺瞞に基づくものもある。こうした易きに流れた彼らが生み出す断面のなんと不恰好なことか。自らの過去の言葉から脱却せず、新たな視点を求めないまま他人に押し付けることは極めて危うかろう。

物事を熟視し理解しようとすること、言葉を尽くして表現しようとすることは、確かに胆力がいる。いつまでもやっていられない。だからこそ、手放してはならない。周囲に無批判に従い、思慮なく押し流されることは、まさに加害の一歩手前であろう。

言葉にしよう。それは物事をよく観察することだから。確かに言語化、それは何かをある一面だけを切り取る暴力性を伴う。だが、適切な言葉は事物を美しく切り取り、人々を惹きつける。反対に、加害の言葉で切り取った断面は、やすりのよう荒々しく人々を傷つけることになるだろう。


ちょっといい醤油を買います。