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他人に興味ないだろ|自分ごと

他人への興味は割とあるほうだと思っているけれど、「他人に興味がない」としばしば言われる。んー、確かに? 興味はあるが、他人とのコミュニケーションは苦手なので積極的に他人の話を聞かないからかもしれない。でも興味はあるもん。内側に抱えている興味が質問として発散していないだけだ。無感情であることと無表情であることは別だし、あなたも口には出さずとも何かを怒ったことがあるだろう。

では、他人への興味はいかにして図られるのか。まず他人への質問によって図ってしまったが、これは必ずしも共有されるものではないだろう。質問ではないかたちで発散されることもあるはずだ。他に、例えば、他人のエピソードに対して同情しやすいか、共感しやすいかといった項目で推しはかることだってある。あんなにVTRで泣く柴田理恵が他人に興味がないわけないだろうよ。

しばしば「自分ごと(しばしば、自分ゴトとも)として考える」と耳にすることがある。
正直、わたしはこれをよくわかっていない。これが何を指し、これの何が称えられているのか、しっくりきていない。すぐに思いつくのは要件は以下のようなものだ。

①自分には関しないであろうことを、関係者として考えること
②ある立場・状況に置かれているのが自分だったら、と考えること

自分が忘れ物をあまりしない場合、忘れっぽい人に対して、それが解決できるような糸口を差し出すことは①に当てはまる。あなたが何か忘れ物をしてもわたしは困らないけれど、どうにか忘れ物をなくす・減らすようにと考える。という一連の自分ごと化だ。実は、同じ状況で②も満たすことはできる。自分が忘れっぽかったらどう行動するだろうか、と考えることで対処法を編み出す。これは忘れっぽい人という立場(性質)に自分をすっぽりと入れて考える、という自分ごと化になるだろう。

なんなら、忘れっぽいことを心配するだけでも②の要件を満たせるのでは。日常生活で困ることがしばしばあるんだろうと心配する。という具合に、そもそも解決を図る背景には一定の同情があって、既に自分ごと化が済んでいるのだろう。

翻って、わたしがこの「自分ごととして考える」ことが一体何を指すか分からないというのは、その要件の簡単さが理由だ。逆にいえば、全く自分ごととして考えないことは可能なのか?と怪しんでいるのである。わたしたちは何か他人のことを考えるときに、ほぼ必ず「自分だったら」と考えているのではないか。だからあえて「自分ごと化」することの良さがどういうことかわからないし、どうしてそれが良く語られているのかもわからない。

自分のことだったら熱心に考えられる。という反論があるだろう。このとき、自分ごととして考える、というのは、もっと切実に考える、ことと同義になる。はたしてそうだろうか。自分のこととなるとうまく向き合えないことは意外と多い気がする。友達の浮気には反対するくせに自分は浮気しているやつとか、子どもの好き嫌いは注意するくせに自分は嫌いなものを克服しない親とか、いわゆる自分に甘くて他人に厳しい一面はしばしばみられる。他人のことだからこそ冷静に、距離をとって考えられることもある。こんなふうに、自分ごととして考えることの良さは、実はよくわからないのだ。


昨年、引っ越したのを機に家具をいろいろと新調した。余談だがわたしは自分で組み立てる家具が結構好きだったりする。「パーツを『時計回り』に回す」と書いてあって、わたしはそれに従う。時計に正対したとき、時計の針は真上から右側を通って真下に移動する。だから右回りを時計回りと呼ぶ。時計から見れば針は真上から自分の左側を通って真下にくるのに、わたしたちはそれを「反時計回り」と呼ぶ。少しは時計の立場にもなったらどうだろうか。


ちょっといい醤油を買います。