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自炊と許し

わたしは料理がすきです。突き詰めると、美味しいものを食べるのがすきで、料理はその手段のひとつです。自宅のキッチンで自炊をすることも、美味しいと評判の料理をお金を払って食べることももちろんすきです。自炊はしばしばストレス解消として、外食はしばしばご褒美として、傷ついたわたしの人生を立て直してくれるものです。後者は共感されることが多いものの、前者は人によってはむしろストレスを与えるものだと、捉えられることも少なくないでしょう。

「自炊する?」という質問は、実にカジュアルに行われていて、その気軽さとは裏腹にどこか他人をジャッジするようなニュアンスを含んでいます。女性に向けられたそれは尚更、大きな規範の塊としてぶつけられます。現に、自炊における論争は世間で度々起こっていて、特に家庭において自炊を担う(担わされている)女性への負担が問題になっています。
数年前、子どもを連れた女性がスーパーでポテトサラダを購入しようとしたところ、高齢男性から「母親ならポテトサラダくらいつくったらどうだ」と叱責を受けた、というニュース(いわゆる「ポテサラ論争」)が世間を騒がせました。

このニュースは、「母親なら」という役割への強請と、「ポテトサラダくらい」という料理にかけられる労力の軽視を含んでおり、すっかりわたしを疲弊させると同時に、自炊に対してより関心を向けていくきっかけになりました。

近年は、本当に便利な冷凍食品(「味の素の冷凍ギョーザ」は本当にすごい)があったり、手順通りに既に用意された食材を調理するミールキットがあったり、自炊をするハードルはごく低くなっています。これ以外にも、著名な料理人が手軽なレシピを共有したり、「一汁一菜でいい。」など気負わないようなメッセージを発したりと、とにかく「これでもいい」「これで十分」というような風潮が強いとすら感じます。

「自炊はしないですね。」という人に対して、「最近は便利なのいっぱいあるよ」とか「簡単なのでもいいのに」とか、やはり自炊を薦めるような反応は珍しいものではありません。もともと強かった「自炊至上主義」は、少し形を変えて大きく大きく広がっていると感じています。仮に外食が発達したとはいえ、自炊をする方がよい。ミールキットなど誂えられた製品を使用してまで、自炊をするのがよい。料理人は自炊のハードルをごく低める発言をしますが、言わばこれは権威から許されているに過ぎない。「自炊は簡単でいい」という顔をした「簡単な自炊をしろ」というメッセージにすら聞こえてきます(これは受け取る僕がひねくれているだけかも、とexcuseしておく)。

ここまで、自炊すべきという規範への批判のように書いています。それは、その規範を下支えているものがしばしば抑圧的なものだからです。特に「女子力」や「ていねいな暮らし」などと結託して、自炊ができない人に対してその不安を煽り、新たな消費への誘導させるような営みへには強烈な批判を向けたいと思います。むしろ自炊は、わたしたちがひどく感じている失敗への怖さみたいなものから、わたしたちを解放してくれる訓練の機会として機能するのではないか、と希望を感じています。失敗することは本当にこわい。けれど、わたしは料理では失敗ができます。

例えば料理研究家がレシピをSNSなどで公開します。その投稿に対して多数の、同じようなコメントが並ぶことがよくみられます。それは「バターはマーガリンで代用できますか?」、「白ごまの代わりに黒ごまでもいいですか?」というようなコメントです。前提として、自炊は自分のためのする料理です。同居している人がいない限り、つくった料理を食べるのは自分だけ。同居人がいたとしても、数人でしょう。ほぼ誰にも見られていない、自分しか見ていないはずなのに、失敗を極端に恐れる姿勢がやはりそこにはあります。

バターとマーガリンが似ている。ここまで辿り着いたなら、試してみたらいいはずです。むしろ自分が摂りたい食材を積極的に取り入れて、レシピをアレンジしてしまっていいはずです。自炊という明日も続く営みのなかで、失敗を極端に避けることを続けるのは辟易してしまうでしょう。大根と蕪は似ているから変えてみる。うどんのレシピだけどご飯にかけてみる。興味が出てきたら、調味料の効果などの基本的なことを勉強すれば、料理にぐっと慣れることができるでしょう。自分のために料理をし、自分を労わることができる。自炊にはそういう可能性があるんだと、なんとなく思っています。

ちょっといい醤油を買います。