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どっちつかずでいる体力


夜風がこの部屋を通るたびに、窓にかかっている薄いブラインドが呼吸するみたいにふくらんだりへこんだりしている。わたしはそのゆったりした呼吸をじっと眺めている、憧れている。わたしはこの部屋で呼吸がしづらい。

社会にぶつかりながら進んだせいで自分の理想とはかけ離れた形をしている流れの跡を振り返ってみたとき、その不格好さを自分で笑えない。まっすぐ、ただ何かに向かってまっしぐらで進めたなら、きっと深く息が吸えるんだろう。


「正直に言って、むかしはお母さんに近づこうと思って、息子である君を利用していたところがある。でもいまは、純粋に君と話していて楽しい。これからもよろしくね。」

このセリフを言われて、わたしなら、なおも面と向かって話せるだろうか。こわい。誰かと近づくために他の誰かを利用しなくてはいけないことに絶望してしまわないだろうか。餃子を食べるために、オムライスも食べなくちゃいけない? え、これは喩えとして正しい? どういうこと?

名のついた関係には引力がある。高校や大学の同級生が結婚したり、恋人との旅行をインスタにあげているのをみて、ただただ羨ましくなる。誰かと一緒にいる人なら全員寝ているだろうみたいな時間の後の夜は、もう考え事をしないようにしている。

しかし、誰かの唯一の特別でありたいという欲望を剥き出しにして、脆弱な閉鎖的な関係を築き、自分も他人も拘束し、それが翻ってノナモリーやポリアモリー、或いは単に独りでいることを排除するような態度を生みやすいことを考えるとき、少なくとも自分はモノアモリーを実践しかねるんだ、と誰かのまどろみの隣で耽る。

クラス内でグループが形成されているのをぼうっと眺めながら渡り鳥のように移動していたあの頃を想っている。グループAでグループBの悪口を聞き、グループBでグループAの悪口を聞いていたマージナルマンだったことを想っている。もし高校に文春砲があったとしたら、それはわたしだったかもしれない。あのころ、わたしは無敵だった。ゴシップを握っていたことへの全能感ではなく、特定のグループに〈友達〉として定住しないその振る舞いを持続させられるだけの若さとあまりある体力があったからだ。

付き合わない/法的な婚姻を結ばない合意のもとで親密にしていた2人が、最終的に結婚したり、「保証がない」ことが決め手になって破綻したりするのを、なんべんもみている。名のついた関係の引力が強い社会で、〈そのまま〉親密な紐帯を続けるには、その脱構築的な身振りを続けられる体力/耐力が求められる。「関係がある」=「保証がある」わけでは全くないが、「関係がはっきりしない」という状況の不安定さに、人はしばしば耐えられくなるのだと思う。

しかし、異性愛規範に基づいて、そうした排他的な対人関係の約束・契約を奨励する構造に乗るかぎり、自分の人間関係がどう名付けられているかに感性が振り回されてしまう。その状態自体がそもそも「不安定」だと思う。この不安定さには、排他的で単一な交際関係を至上として希求する構造に乗っかってしまうかぎり、表裏一体に巻き込まれざるをえない。「関係を持つ」=安定、「はっきりしない」=不安定ではなく、そもそも不安定なのだ。


親子、友達、恋人、婚姻、カンケイ、かんけい。誰かと他の誰かとに「関係がある」、というときにわたしたちは一体なにを示しているのだろうか。教えてよ、フッサール。

この部屋で息がしづらい。本当は息を潜めているのかもしれない。
放っておくといないことにされる。けれど表に出ると傷を受ける。どっちも選べずに、自分が生きていける最低限の呼吸だけを確保してじっとしている。

ちょっといい醤油を買います。