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2008年のミラノサローネ

2008年3月11日
先日、ミラノサローネがどういう位置にあるかについて書きました。イタリアがトレンド創出の場として評価されはじめてきたことと並行している、と。そこではライフスタイルの読み方がキーですが、じゃあ、ライフスタイルって何なのでしょう。朝、職場に出勤して10時頃、「ちょっとカフェを飲みに行こうか」というのもそうです。「イタリア人の遅刻の理由」は一つのヒントにはなるでしょう。

ぼくがサローネにやって来る人たちに言っているアドバイスがあります。「それぞれの展示会場でカラーやフォルムのディテールを見るのもいいけど、全体的な文化トレンドを見るといいですよ」 と言います。「マックスビルのポスターを作ろう」でも書いたように、ドゥオーモの横にある王宮やトリエンナーレで開催している企画展を通じて、今の時代をどう見るといいのかがよく分かります。たとえば2006年にバウハウスの巨匠とよばれるマックス・ビルを紹介したのはなぜなのか、そのキュレーターの意図を読むといいのではないかと思うのです。

ヨーロッパの人たちは、何かを企画するとき、まず抽象的なレベルで大枠をつかまえ輪郭を描きます。 そこから具体的に落とし込んでいくのですね。よく西洋人はロジックからいき、東洋人は直感からいくと表現されるところです。このどちらが良い悪いではなく、少なくてもミラノに来てトレンドをつかもうとするなら、この大枠をおさえないと海図をもたずに航海するものだと言いたいのです。

じゃあ、次にどんな見方をするといいのかは明日書きます。

2008年3月12日

昨日、トレンドをおさえるためには海図をもたないといけないと描きました。トルトーナ地区を、足を棒にしてただ歩き回るだけでは、トレンドはなかなか分からないですね。「2008年ミラノサローネ」で書いたように、トレンドフローの最初にはコンテンポラリーアートもあるし、過去のアートの展覧会にもヒントがあります。デザイナーやプランナーたちはこういうものを見ています。そこから時代の動きをつかまえます。少なくても、せっかくですから、同じものを見ましょうということです。そうすると歴史への目配りがとても大切になってくることに気づくはずです。

よくパワーポイントで企画書を作りますね。チャート図があってキーワードをちりばめたようなタイプです。やや直感志向ともいえます。昨日、「 ヨーロッパの人たちは、何かを企画するとき、まず抽象的なレベルで大枠をつかまえ輪郭を描きます。 そこから具体的に落とし込んでいくのですね。」と書きましたが、ヨーロッパの人たちは、パワーポイントではなく、まずワードでびっしりと文章を書くことが多いです。もちろん分野にもよります。あくまでも比ゆ的な話として読んでください。目の前に陳列されているのがプロトであれなんであれ、この文章に書いてあることを理解することがキーです。

どこの展示場に行っても入り口に、プレゼンの目的や趣旨が書いてあるでしょう。あれを無視してはいけません。それを読まずに、陳列された作品の出来を論じても、あまり意味のないことです。この人の意図がどこまで表現できたか。趣旨を読まずに理解するのは不可能なはずです。

ちょっと硬めの内容になりましたが、明日はもうちょっと具体的に、今日の内容を解きほぐしてみます。

2008年3月13日

2006年にミラノの王宮で行われたマックス・ビルの展覧会のことは何回か書きましたね。マックス・ビルは1920年代、バウハウスで勉強した後、アーティスト、工業デザイナー、建築家、グラフィックデザイナーとして、いわばマルチに才能を発揮しました。その意味で、トータルな表現を狙ったバウハウス教育の趣旨にあっていたことになります。専門馬鹿にならず、もっと幅広い部分から見えるものがあるはずだ、そういう考えがマックス・ビルの頭の中にあったのではないかと想像します。

2006年とは限定しませんが、その頃、ぼくの周囲でも「やっぱりバウハウスはすごかったよね。あのスピリットは間違っていなかった」と言う人が増えてきました。常にどの時期にもバウハウスファンはいますから、今までそうは言っていなかった人が言い始めたという点がポイントです。テキスタイルデザイナーも、「今は、カスピ海やアフリカにモチーフを求めるのではなく、過去のどこかの時代にモチーフを求めることが多くなってきた。1920年代は注目だね、特にバウハウスは見直すときだ」と語るのを聞いたとき、ぼくは「ああ、動いてきたな」と思いました。

それまでも、従来の縦割り分野を如何に横断的に見直すかということは、色々な分野で論じられてきました。役所のシステムもそうだし、アカデミズムもそうです。総合的により立体的にコトを把握する必要性をたくさんの人たちが感じはじめていました。バウハウスはその一つのシンボルではないかと思います。

案の定といいましょうか、昨年のサローネをみていても、今までの近視眼的な見方をどうすれば脱することができるのか?と問いかけてくる試みが増えてきたというのが、ぼくの印象です。

2008年3月14日

昨日、バウハウスは総合的にものをみるシンボルであると書きましたが、「2008年ミラノサローネ(1)」で記したように、あらゆる製品がどんどんお互いにリンクしていく時代に入ってきました。一つの製品をみているだけでは不十分で、トータルな生活ヴィジョンが描けないと、個々の製品のコンセプトが作りにくくなってきたのです。あなたが使っているPCとデジカメが繋がることによって世界が広がる。カーナビと携帯電話がリンクする。そういうことです。

さて昨年のサローネ時の王宮での企画は何だったでしょうか。 20世紀の各時代のアートとインテリアです。会場の色々な部屋がそれぞれの時代のアート作品とインテリアを表しました。ここには我々が扱っているフォルナゼッティの作品もありましたね。このような展覧会も、「インテリアだけをみていては駄目ですよ。アートとの関連を見なさい」と語りかけられている気がします。

いろいろなものをみて、どんなコンテクストがあるのか、よく見てみてください。そして読み解いてみてください。そうすると 小さな一点からでも、大きな世界のあり方が分かってきます。ちょうど、上のライトを覗いてみると、こんな箱庭の世界が見えてくるように・・・・・。

2008年3月17日

この数年、日本企業がミラノサローネの機会を狙って多く出展するようになりました。レクサスは今年で4年目ですし、キャノンがトリエンナーレで出展します。デザイン振興会も一昨年に続き実施するとのことです。こうした既に欧州市場に進出している大企業だけでなく、これから進出の手がかりを作ろうとする会社やデザインスタジオも発表の場をミラノに求めています。ぼくは、こういった人たちには、コンテンポラリーアーティストの村上隆『芸術起業論』は参考になりますと薦めています。相手とする市場のコンテクストをどう読み解き、そこにどう自分の作品を位置づけてきたか。これを彼は説いています。

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上はナポリにあるコンテンポラリーアートのギャラリーで最近発表された作品です。この作家の名前は今週の最後に書きます。お楽しみに(笑)。で、本題ですが、一言でいうと「日本のよいものは外国人といえども心で自然に分かってくれる」と考えてはいけないのです。それはたまに分かってくれることもあります。ただ、もともとが異なる文化なのですから、そこに若干の理解のずれは仕方ありません。村上春樹の小説が世界のそれぞれの言葉で訳されヒットしているのを、「彼らは本当はわかっていない」と言ったらそこでおしまいです。

「2008年ミラノサローネ(3)」で書いたように、ヨーロッパの人たちは、抽象的な理念あるいはコンセプトを緻密に練り上げるトレーニングを積んできました。自分の考えを、ある構成モデルにそって文章を書き上げる。文章に書かなくても、そういう頭の使い方をするのです。ですから、もしあなたが「直感的に分かって欲しいんだよ!」と訴えるなら、どうしてそういう風に思って欲しいかの文化的背景を説明しないと「なるほどね」と相手は言ってくれないのです。それが粋じゃないと思って躊躇していてもコトははじまりません。まず、説明です。

展示会場の入り口で作品の趣旨をきちんと読むといいですよと書きましたが、 ヨーロッパの人たちの行動をじっと眺めてみてください。入り口で立ち止まって文章を読んでいる人たちが殊のほか多いことに気づくはずです。

2008年3月18日

ヨーロッパではプレゼンが大事です。入り口の趣旨を読んでもらって頷いてもらえば、第一関門突破です。それでは、その具体例を挙げましょう。昨日のブログに載せた作品をよく見てください。楕円形の大理石の上に菊の花びらが散っています。直径が1メートルちょっとあります。厚さ9センチ。表面がだんだん削り込まれていって、そこに水がたまっています。ただ周縁までも水はのび、しかし表面張力でこぼれない。近くからみると、下の写真のようになっています。

そう、350キロある大理石自身も浮いているのです。下に5センチの台木があります。軽さがありますね。こんな重いモノが軽くみえるにように工夫され、その上には、揺れ動く水があり、はかなき命の花びらが漂います。室内といえど、空気は動き、それを視覚的にもとらえることができるわけです。

90年代後半、携帯電話が一般に普及しはじめた頃、よく「どうして日本の携帯電話は細く長く軽いのに、ヨーロッパの携帯電話は重く厚みがあって扁平なのか?」と話題になりました。西洋人は手が大きく、日本人は小さい。いや、ヨーロッパでは価値のあるものは大理石のように重くなくてはいけないのだ。一方、日本は紙に代表されるように軽いことに価値がある。だから携帯電話も軽い。今から思うと、新しいジャンルの製品に関する懐かしいナイーブな議論です(苦笑)。

しかし、いずれにせよ大理石はどう時代を経ても重いモノであり、それはヨーロッパ文化を暗喩するモノです。それに対し水や花びらは、たとえ世界共通にあるものとしても、不安定な存在のシンボルであるにはかわりなく、これは日本の美学を表現しているだろうと想像できます。しかし、この作品が語りたいことは、これだけではありません。

2008年3月18日

楕円の大理石とその上の水と花びらが語りかけるのは、ヨーロッパ文化と日本文化の対比というより、二つの文化が現実的にどう向き合うかを疑問として呈している、と表現したほうが良いと思います。ぼくは、この作品を見たとき、あるエピソードを思い出しました。息子に日本語の絵本を読ませていたときのことです。どうも「へ」を「せ」と読むのです。「へとへと」ではなく「せとせと」と。他のひらがなはちゃんと読めるのに。そこで彼にイメージの連鎖を聞いてみました。「へ」は「へび」の「へ」と覚えていました。積み木の「へ」の裏にあるへびの絵を思い浮かべるのです。

次にイタリア語のserpente(へび)という言葉が思いおこします。発音は「せるぺんて」。それで「せ」と読んだのです。よく聞くと、彼の頭にはいつも、数字やひらがなあるいはアルファベットが星雲のように浮いているのです。それらを自由にリンクさせて遊んでいるのです。ひらがなの「て」は数字の「2」の逆。「ろ」は「3」。カタカナの「ヨ」はアルファベットの「E」の反対。彼がどう視点を動かしているのか、ぼくはとても興味があるのですが、謎は尽きないです(苦笑)。さて話をこのアート作品に戻すと、この作品は以下の壁にある作品とポジとネガの関係になっています。

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蝋とワックスでペイントした青いバックのうえに白い豆が埋め込まれています。夜空に浮かぶ星雲のようです。これが大理石の色のコントラストと逆なのはすぐ気づくでしょう。写真では見えませんが、豆は円に近い形をしています。大理石は楕円です。「そんなにしゃちこばらなくても、およその円でお互いに共通点を見出してもいいんじゃない?」という声が聞こえるような気がします。「大理石、花、水、蝋、豆、いろんなマテリアルがあるけど、視点を動かせば、皆、仲良くなれるんじゃないの?」と、そう語っているようにも思えます。ぼくが愚息の遊びを思い出したわけが、これで分かりましたか?

2008年3月20日

文化の違いは極めて流動的です。あまり固定的に考えてはいけません。いろいろな要素と工夫が入り混じって、それらがお互いにぶつかり合ったり、手をつないだりするのです。大理石のうえに浮かぶ花びらと壁にかけられたペインティング。しかし、このペインティングも豆を素材として使い、どちらかといえばインスタレーションというカテゴリーに入るかもしれません。こうして、この作家は、あらゆる存在に「君、本当にそれでいいの?もっと違う見方をされたいんじゃないの?」と一つ一つ聞いていくわけですね。

そして時を経て残る記憶も同様に大切にします。 でも人の記憶のキャパには限りがあります。だんだん鮮明さが薄れ、カラーはセピア色に変色していきます。あるいはスピルバーグ『シンドラーズリスト』のよ うに、モノクロをバックにポイントだけ赤い少女の姿が見えるかもしれません。が、青は青であり、青を赤とは記憶しないでしょう。「青だったろうな」というボンヤリとしたイメージが頭の中に残ります。下の作品は薄らいでいく記憶のなかで残っていく形ってなんだろう・・・そんなことを考えさせてくれます。

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ここにあるのはオーガニックな形ですね。作家は、日本そのものを表現するのではなく、西洋そのものを表現するものでもなく、そこに浮遊するあり方をいろいろなアングルから見せてくれています。菊の花やはかなさは日本の象徴と言われやすいエレメントです。が、それらがあるカテゴリーのなかで提示されるからそう思われるのであって、西洋のコンテクストのなかでも十分に「嵌る」駒です。

この作家は日本人です。彼は「展示しておけば分かってくれるだろう」とは考えませんでした。極めてロジカルにヨーロッパの人たちに、彼の趣旨を丁寧に話していったのです。

2008年3月21日

今週、ご紹介した作品は廣瀬智央氏の手によるものです。「2008年ミラノサローネ(5)」に掲載した、照明の上から覗くと箱庭が見える作品もそうです。今回ナポリで発表した作品をさらに発展させた作品が、今年11月末、東京の小山登美夫ギャラリーで展示される予定です。彼はいままで青という色に拘ってきました。世界のさまざまな場所で見る空も写しとってきました。しかし、今回、作家はあえて空の写真には言及していません。

作品をご覧になってお分かりのように、もちろん関係ないわけがありません。饒舌すぎてはいけないと思ったのです。いや、正確に言うと、より饒舌に語るべきところは語り、省けるところは省こうと考えました。こうして伝えるべきロジックを文章にびっしりと書くつくし、ご紹介した作品が出来上がったのです。そして彼は「このへんは感覚的に分かるかもしれないけれど・・・」と思う点を、そのままほっておかず、その感覚を媒介にしていることは言語化して明確にし、文章と口で説明していきました。結果、現代美術館のキュレーターや美術雑誌のジャーナリスト、あるいはコレクターからかつてない絶賛を受けるに至りました。

作家は語ります。

「ぼくが今までやってきたこと、言ってきたこと、それらと今回がさほど違うわけじゃないんです。ただ自分のポジションをよりはっきりさせ、ヨーロッパの人たちのロジックにあうような表現をしたのです。そしたら、皆『なんとポエティックなんだ!』と喜んでくれ、人によっては何度もぼくの説明を聞いては頷いてくれました。特に大理石はたくさんの方からオファーをもらいました。」

このエピソードは、日本の方がミラノサローネで出展するときに、とても参考になることを語っています。そして同時に、ヨーロッパ人の作品を見るときの見方に関するヒントも与えてくれます。

以下、ギャラリーと写真に関する情報です。

Courtesy Umberto Di Marino Arte Contemporanea, Naples, Italy
Foto: Tartaruga
© Satoshi Hirose. All Rights Reserved.

2008年3月25日

先日、建築家と話し合っているとき、彼がちょうど仕上げたプレゼン資料を見せてもらった。トップページは、彼のアイデアスケッチとコンセプトの説明。その後に、模型の写真やPCで作成したイメージ図があった。超高層ビルとその周辺の都市計画だが、ここで僕が聞いた。「このスケッチはご自分でやって、あとは全部スタッフがやったのですか?」 「いや、このコンセプトも僕が自分で書いた。最初のアイデアを視覚化することと、言語化することは、絶対に僕がやる」との答え。

この建築家の師匠の娘さんがまだ小学校低学年の頃、学校の授業でお父さんの仕事を作文に書くという課題がでた。彼女は「わたしのお父さんは、毎日、机の前にすわり、一日中、色鉛筆をもって、紙に絵をかいています。わたしのやっていることと、同じです」と書いた。 世界的に有名な建築家も娘さんの前では同じレベル(苦笑)。

すべては、この手を動かしてアイデアを出していくことからはじまる。これもとあるデザインの巨匠から直接聞いた言葉だが、「自分の手でスケッチを描かないと駄目だ。それじゃないと、どうしてもバランスがうまくいかないし、抜群なアイデアが出にくい」と話していた。

アイデアがどう生まれるかは、色々な人がさまざまに説明している。インプットがないとアウトプットがないとも言う。しかし、そのインプットも、意識的なインプットでない場合でも、ある瞬間、突然に閃くこともある。とにかく、僕は建築家やデザイナーの最初のアイデアスケッチをみるのがとても好きだ。

2008年3月26日

最近、国際関係論の研究者と話していたら、こんなことを言っていた。

「皆、忙しい時代でしょう。だから、どこか他の国に出かけて新しいことに出会ったとき、同じ要素を探すことより、まず違うことって何?という確認に走る。それが、今のEUの傾向だと、すごく感じるし、仲間もそう言っている。確かに、昔と比較すると、共通要素って増えたとは思うけど、ただ、違いばっかり探すのもどうかなあ」

特に西側EUの場合は、旧東欧や非EUからの人の移入が激しく、そこでさまざまな社会問題が生じている。それらに直面していると、受け入れ側はお隣さんも同じ感覚をもっているだろうと現状認識しやすいかもしれない。だからこそ、「違いは何だ?」 が一言目に出てくるのだろうか。

「ああ、やっぱり、あそこの国の人たちも僕たちと同じなんだね」と喜ぶのは、牧歌的風景になりつつあるということでもある。確かに、EU内での「同じだろう」という範囲は、EUとアジアで「同じだろう」という範囲と比べると、もともと圧倒的に広いはずである。違った文化圏で、下手にこのトレンドに乗っかるとやけどをするだけだろう。

いずれにせよ、この冒頭の話を聞いていて、発言している本人と同様、どうもしっくりいかない。何か良からぬ方向へ向かう予兆のような気がしないでもなく、要注意のコメントだ。

2008年3月27日

人はモノではなくコトに関心が移動していると言われます。それも1970年代あたりを境に、じょじょにそうなってきたという見方をする人も少なくありません。こういう意見を聞くたびに、僕は「今までのモノ偏重が是正されてきている」という見方をすべきではないのかと思います。

例えば、ヴァーチャル空間の質が悪いと、その空間を囲むハード自身が如何に良いデザインであろうと、その商品全体のイメージは下がります。ナビと車の関係なども、そのひとつです。ヴァーチャル空間であるにせよ、ユーザーの前にあるのは空気だけでなく何らかのハードが存在します。何らかの体験型なコトにお金を使うにせよ、それを形づくるモノの質が問われるわけです。

今、多くのモノデザイントレンドが、多機能から単機能へと動いています。モノがある特定のシーンを想定したある特定の人たちのためにデザインされます。このユーザーにはAという機能をつけ、あのユーザーにはBという機能をつけ統合させておけばいい、という流れとは逆です。

つまり、ユーザーが自分で世界を構築しやすいことが重要です。そういう意味でコト主導型を支えていると表現できもなくはないですが、コト主導型を時代のメインストリームと捉える考えの背景にそこはかとなく見える無理が僕には気になります。

2008年3月31日

白い洋服は究極のオシャレだと言う人がいますが、本当にそうだろうか・・・と思わないでもないです。日本の街には白い車が溢れている。欧州の街に白い車は少ない。白い車は営業車というイメージが強い。どうして日本では白が受けるのだろう。 塗装の厚みという説もありますが、それだけでしょうか。

デザインプロダクトも日本では白が売れる傾向にあります。20-30代は特に白を好み、其の上の年齢層になるとナチュラルカラーが好まれます。よく調べていくと、白を買う人は「無難だから」「どれにも合わせやすいから」という意見が多いです。比較的自分のセンスに自信のある人は、赤や黒を選ぶという傾向もあります。

白は膨張色だから、空間の広さを必要とします。本当に他の色と合うだろうか・・・それは洋服に限った話ではないです。白いペンキの壁に囲まれた空間では強烈な赤が映えるが、もちろん白いオブジェも悪くない。しかし、それにはより高度な技が必要な気がします。

白いiPodは欧州でも流行です。あるいは最近のドイツの空港など、テンション構造を使った建築空間ではガラスとグレーあるいは白がよく生かされています。またロフト的空間もそうです。白は何か他のモノやカラーを引き立てるために使われることも多いです。ただ、ヨットハーバーのクラブハウスに見るように、やや保守的なカラーでもあります。

この1-2年、高級スポーツカーでも白が戦略的カラーとして試みられてもいます。今後、白のポジションがどう変容を遂げていくのか追ってみましょう。

2008年4月2日

2週間前の「2008年ミラノサローネ」で、ナポリのギャラリーにて発表された作品をご紹介しました。(10)で批評家やコレクターなどからも、大変評価が高かったとも書きました。 少々後日談をお知らせしましょう。欧州のコンテンポラリーアートのある研究者が、ギャラリーでこの作品をみて興味をもち、作家である廣瀬氏の過去の作品、それまでの批評や作家自身が書いた趣旨をギャラリーから取り寄せました。それらを、この方は丁寧に読んこんだようです。そこで作家の深みのあるコンセプトに更に強い関心をよせ、直接作家にコンタクトしてきました。

この研究者は、日本の現代美術の流れに造詣が深く、1950年代から70年代にあった具体やもの派の動きがある時にストップし、その後、日本画やサブカルチャーをベースとした作品が突然でてきたことに疑問をもっていたようです。もしかしたら、これらの作品が自分が知っている現代美術のコンテクストを汲んでいないことに、違和感があったのかもしれません。多様な読み方ができる作品の潜在力に、わが意を得たと思ったのかもしれません。そこは直接話していないぼくには詳しく分かりません。

ただ、少なくても、ある作品を理解してもらうには、その全体の文脈を説明してあげないといけない。特に文化の違う世界に住む人たちには、より包括的に「多分、ここのあたりが分かりにくいだろうな」と思う点に前もって回答を用意しておくといい。そういうことが、この例からも分かります。文化的アイコンを並べればそれでよしというのは失格です。

言葉に翻訳が必要なように、デザインもある種の翻訳作業が要求されるはずです。あなたがAと定義するものが、ヨーロッパ人にはBと定義されるものに対応するかもしれない。それなら、Aを紹介するときに、「これはあなた方の文化でBとされるものですね。なぜなら、私たちの文化は、こういうストラクチャーをもっているからです」と言葉を添えてあげないといけません。

2008年4月3日

昨日の続きです。「日本画やサブカルチャーをベースとした作品が突然でてきたことに疑問をもっていたようです。もしかしたら、これらの作品が自分が知っている現代美術のコンテクストを汲んでいないことに、違和感があったのかもしれません。」と書きましたが、もちろん、皆がそう思っているわけではありません。サブカルチャーをベースとした作品が分かりやすくてよいという人たちもいます。実際、それで市場もあります。

それでは日本のアートのどこが説明不足なのでしょうか。ハイカルチャーとサブカルチャーとあえて分けたとき、ハイカルチャーの流れがよく見えないようです。 「サブカルチャーだけでアートの流れがあるわけじゃないだろう」という問いかけに、これこれしかじかですという答えができないのです。ハイとサブの両方があってよいのですが、サブがハイにいく回路、ハイがサブにいく回路、この回路が詰まっていてはいけないのです。

またハイがあってこそのサブであり、サブがあってこそハイです。「日本はアニメ生産国でやっていく」と宣言してもいいですが、それはビジネスのあくまでも一部であり、ハイカルチャーの充実をおろそかにしてよいということではありません。このコンテクストを作っていく意識を忘れてはいけません。これをしないと継続性のない、一過性の風景だけが展開されていくことになります。それではヨーロッパの人たちが、日本のアートを十分に理解できません。

本人は、日本人であることを特に意識していなくても、あるいは日本の文脈を離れた作品を作っていると思っていても、作品のどこかに日本文化の特性がヨーロッパの人にはいやおうなしに見えてしまう。これは肯定的でも否定的な評価でもなく、一つの現実として受け入れないといけないことでしょう。そのどうしても染み出てくる日本をどう自覚し説明していくか、これが日本のデザインをヨーロッパに紹介していくときにも大切なポイントになってきます。

2008年4月4日

ハイコンテクストカルチャーとローコンテクストカルチャーという見方が文化人類学にあります。比ゆでいうと、花瓶と花が描かれた静物画を、花瓶と花だけで作家の意図を読み取ろうとするのがローコンテクストカルチャー。それらの背景にある様子も含めて理解しようとするのがハイコンテクストカルチャー。国民ごとにポジショニングさせていくと、ローコンテクストカルチャーはドイツ系スイスで、逆にハイコンテクストカルチャーは日本人。イタリア人は真ん中あたりになります。

「あまり言葉で説明しなくても、全体のムードで人は分かってくれるよね」と思うのは日本人。「しつこく話し込まないと分かってくれるはずがない」と思うのはスイス系ドイツ人、ということでもあります。何度も書いているように、展示場の入り口のわきにある趣意書をちゃんと読むのがヨーロッパの人です。ヨーロッパのなかでも、北の人は読み、南の人はそれほどでもないという違いはありますが。

すなわち、 全体のコンテクストをあまりみない人たちには、上の場合でいえば、やはり壁の作品と大理石の作品との関係をよく説明しないといけないということです。そして、その読み解き方が分かると、とても深く感動します。ヨーロッパの人たちが何をみて、何をみないか。そしてみないものをどう見てもらうようにするか。ここまで行き届いた見せ方をしていけば、長く記憶に残る、いわば持続性のある作品として位置づけられていくでしょう。

2008/4/17

昨晩、15日晩よりフオーリサローネが幕開けしたので、トルトーナ近くをブラブラと歩いてみました。ガイドも持たず、何となく気になったところをフラリと覗くという感じです。それもそんな時間をかけていないので、まったくの第一印象ですが、「そろそろ、欠けたロジックが求められる時代ではないか」というのが、ぼくの頭にふと浮かんだことです。

ぼくは、この「2008年ミラノサローネ」のなかで、文化文脈を読み取らないとディテールのピックアップで終わってしまうと書いてきました。この「仮説1」は、このトレンドの話しです。今、プログラムし尽し全てを予定調和的に動かすロボットの時代ではなく、人との対話のなかで色々とフレキシブルな対応ができるロボットの時代になりつつあるといいます。前者を「冷たい知性」、後者を「暖かい知性」と呼んでいる研究者がいます。

あまりにガチガチの合理主義的なロジックはもうごめんだということは、この何十年というなかで言われてきました。もっとゆるい、ちょっと人間味のあるロジックが必要ではないかと語られてきて、「北欧知」に対する「南欧知」であるとか、東洋の思想が注目を浴びてきました。その延長線上に何があるか、それは意図的にある要素を剥してみたらどうだろうという試みが出てきているのではないか、そういうことを昨晩考えました。バロック的な世界を釘でひっかいてみる、ハンマーで叩いてみる・・・・比ゆ的な表現をつかうと、こうなります。

続きは明日書くとして、気になるスポットの紹介。トリエンナーレはセンピオーネ公園のなかにあり、この期間、いろいろな質の高いイベントが行われます。キャノンもここで展覧会を行います。このトリエンナーレが、一昨年から郊外のボビーザに分館を設けました。ミラノ工科大学の近くです。この分館とその周辺が、今年の目玉ではないか、ということがデザインやアート関係者の間で言われています。トルトーナがビジネスの匂いがしすぎてきて、かつてのように若い創造性を発見する場ではなくなってきたなか、トリエンナーレのボビーザがそれにとって替わっていくのではないかという見方が出てきています。関心のある向きは、ご自分でご確認ください。

昨年のサローネ期間、王宮では20世紀の各時代のアートとインテリアデザインをテーマとした展覧会を実施しました。昨日、トリエンナーレで室内コンセントのbticinoが各時代のインテリアと自社製品の変遷を展示しているのを見て、昨年の王宮での企画の影響かなと思いました。その後、分館であるボビーザのトリエンナーレにおいて、TDKが全く同じ手法でテープ、DVD、ブルーレイへの移行をプレゼンしているのをみつけ、もう一つのことを考えました。

欧州は歴史を常に振り返ることを習慣としていますが、イタリアはその傾向が特に強く、歴史をステップアップのツールとして使います。ですから今年、カッシーナがデザイナーとその作品を展示して全貌をみせているのは全くの正統派なわけですが、bticinoやTDKがこの手法を取り入れているのは、2010年からの10年間の市場をとるための戦略的な過去の整理です。実にロジカルな発想です。歴史を如何に自分の味方につけるか、その競争が2008年から始まっていると思いました。これが仮説2です。

ボビーザのトリエンナーレは人も少なくやや寂しいです。10年以上前のトルトーナのようです。ザノッタのサッコの展覧会はなかなか面白いし、先に紹介したTDKも文化文脈に沿った企画をしており、ゆっくりものを考えながら時を過ごすにはよいでしょう。ボビーザはかつての工業地区を再開発し、デザインやアート発信の場と変貌しつつあるところです。

一方、カドルナのトリエンナーレはデザインミュージアムもできて人の往来が激しいです。ここでキャノンの展示をみていて、言葉が足りないなと思いました。屏風や襖絵をプリンターで再現しているセクションは良いのですが、実物のニット と背後にニットを撮影して拡大プリントした展示の面白さが分かりにくかったのです。そこには何の説明書きもありません。これは欧州人の考え方を分かっていない展示方法です。何度か書いているように、企画の趣旨を頭に入れないと納得しずらい人たちには、説明を示しておかないといけません。

2008/4/19

イタリア人の作品に「どうして、こんな色が出せるのだろう」と思わず感じ入ってしまうように、日本人の作品は、欧州の人からはミニマリズム的なデザインであると見られがちです。本人がそうと意識していなくても、「すっきりとしていて日本的だね」と評価されやすいです。2008サローネのサテリテを歩きながら気づいたのは、日本人の表現するミニマリズム的デザインに、欧州人がかつてほど熱い視線を送っていないことです。

もちろん評価する人たちはたくさんいます。しかし、そこに以前ほどの熱さがないのです。彼らは見慣れたのでしょうか。これはぼくの感じたところなので、本当にそうなのかどうかは不明です。ですから仮説3です。70年代回帰ブームにあったミニマリズムが色あせてきたのと一緒に、日本的なクールさが欧州で受けにくくなってきたのだろうかとも思いました。2008ミラノサローネのサテリテで、賑やかでカラフルな遊びのあるスタンドの前に集まっている人たちの表情をみながら、こんなことを考えていました。

実は、この感想には伏線があります。トリエンナーレで行われている Guzzini Foodesign Made in Japan という和食器をテーマとした展覧会で、見ている人たちがいやに冷たく傍観しているなと思ったのです。モノに自ら一歩踏み込む空気がない、あるいは空気が動かない、このような印象をもちました。またデザイン振興会が主催している Japan Design 2008 でも同様な変化を肌で感じました。欧州を市場としてモノを売る場合、意識的に厚みやカラーを変えていないと、熱さを呼び起こせないだろうと思いました。

トリエンナーレでフランスの家具業界団体が展覧会を行っています。ここの一つのセクションに「ピエール・ポランへのオマージュ」があり、ぼくはここで紹介されていたビデオをじっくりと見ました。フランスの多くのデザイナーがポランを目標にしていたことを語り、ポラン自身も自らの作品を、ぼくたちに彼の自宅で語ったように(上の写真、詳細は会員限定コンテンツで紹介しています)、語ります。2008ミラノサローネの会場を歩きながら、ポランのデザインの影響が如何に大きかったか、それがいまだに続いているのではないか、そんなことにも思いがいきました。

2008/4/20

ボビーザのトリエンナーレがミラノ工科大学と一緒にアートやデザインの発信地になろうとしていることは紹介しました。郊外に位置するため、もっとコアになるには少々時間が必要かもしれませんが、2015年ミラノ万博の準備とともにいっそう注目を浴びてくるはずです。もう一つ、文化・産業インキュベーション施設として、記念墓地の横にあるFabbrica del vapore の存在も気になります。

ここはプロトタイプ製作工房、コンテンポラリーアートギャラリー、ダンス スタジオなどさまざまな会社や団体が入っており、やはりかつての工場跡を、再開発しています。2008ミラノサローネにおいても、フオーリサローネの一拠点です。ゆっくり動き出してきました。デザイナーやプランナーが目にしている文化トレンドを把握しておくと良いということを書きましたが、ここはその意味でフォローしておくべきポイントです。

以前、50年代以降、スカンジナビアからイタリアにデザインの中心がじょじょに移動したことを書きましたが、その時に、デザイン組織であるADIに触れました。これはデザイナーだけではなく、教育関係者、企業家、ジャーナリストなどが会員です。デザインが、非常に多層に渡って話題になるメカニズムが出来ているのです。そして欧州の文化的ストラクチャーとして、ハイカルチャーとローカルチャーのバランスと両者の回路について言及したように、ハイカルチャーをリファーしていく習慣や考え方があります。

目の前にあるデザインが考え方として深いかどうかという問いかけをするとき、 それは作品を作ったデザイナーの個人的性格や素養もありますが、今まで述べたような社会的あるいは文化的な仕組みによる部分も大きいわけです。そういう点を理解すると、トルトーナのバールで疲れた足をなでているだけでは不十分であることがおのずと分かってくるはずです。

2008/4/21

スピードをイメージするとどんな表現が可能か、それがクルマだったらどうか、バイクだったらどうか。動きを絵画に表現するとどうなるか。それでは日常生活における感覚はどうか。それが20世紀初頭の未来派によるアートですが、現在、王宮ではジャコモ・バッラの展覧会が開催されています。没後50年です。このスピード溢れる21世紀の初頭に100年前の感覚表現を知るのは、とても興味深いことです。まさしく脳科学の発達で人間のあらゆる感覚の根元が解き明かされつつある今、未来派の提示したテーマを振り返るのは良いタイミングでしょう。

バッラの展覧会の意味するところ、これを追々考えていきたいと思いますが、会場にいる人たちは、非常に愉快そうにこの企画を見ています。作品とのダイレクト感が強いのでしょう。先進国に生きる多くの人たちが自分のアイデンティティを喪失しつつあるなかにあって、何らかのベースが欲しいと心の底で思っています。その時に、自分の感覚がどこまで通用できるかという確認が欲しいのは確かだと思います。

トリエンナーレにおけるキャノンの展示の説明不足を指摘しました。同じ感想をレクサスの展示でも感じました。二つのセクションに分かれているなか、手前の部屋の説明は丁寧になされていますが、奥のプロトタイプカーがある部屋には、何の説明もありません。今まで白やシルバーを基調としてきたのに、今回黒を選んだ理由も書かれていません。どうしてこのような歯抜けのような展示をするのか理解に苦しみます。

コルソ・コモ10では、ヤコブセンのエッグチェアをコンテンポラリーアーティストが様々な生地で覆っています。いくつも並べられたエッグチェアはなかなか壮観です。発想としてはボビーザでのザノッタのサッコの展示と同じで、ぼくはこういう手法をポジティブにとらえています。「色だけ変えて・・・・」という否定的な意見が出がちですが、色のもつ意味を過小評価してはいけません。アイデア不足での逃げの一手であることもありますが、色、素材、仕上げというような要素を正当に評価していくべきでしょう。

2008/4/12

毎年、新しいデザインを供給し続ける意味が本当にあるのか、という問いかけがあります。過熱化してきたミラノサローネに少しブレーキをかけるべきではないかというわけです。インテリア製品を毎年洋服のように買い換える人は殆どいないでしょう。それなのにファッショントレンドを追いかけるように、メーカーやデザイナーはどこか違ったものを出さないといけないというプレッシャーに悩まされ、またそれを追い込んでいく見る側の期待があります。この悪循環をどこかで断ち切らないといけないでしょう。

ミラノサローネでホテルの値段は急騰し交通は混雑します。 デザインと関係のない住人や旅行者にとっては迷惑極まりないイベントです。それでもデザインということについて年一回考える機会を与えてくれるサローネの意義に対し、多くの人は少なくてもネガティブには語りません。関心のない人はたくさんいます。しかしデザインを考えることについては肯定的なのです。これは注目すべきことだと思います。

ぼくがこのブログで言っているデザインは、「さまざまなデザインで書くこと」で記したように、人が幸せな生活を送ろうとして行うさまざまな工夫を指していますが、ミラノサローネは狭義のデザイン、いわゆるプロダクトデザインから広義のデザインを考える機会をもカバーしつつあります。当然のプロセスでしょう。やはりトリエンナーレのデザインミュージアムで出会う作品は、今見ても素晴らしいデザインが多いです。40年、50年を経ても美しい曲線があります。ジョエ・コロンボのボビーワゴンは約40年たった現在もパーフェクトなデザインです。それに対して、今、毎年出てくる新しいデザインはどれだけ時のプレッシャーに耐えられるでしょうか。

新しいデザインは歴史との対話で生まれてこそ長く生きれるものとなります。過去の名作に勝たないといけないのです。そのためには、十分に考えるある程度の時間が必要です。静かな空間でじっくりと過去と向き合い、新しいデザインと出会い、そして同時に色々な分野の文化潮流を俯瞰することです。ミラノサローネをこういう場と考えると、行動プランは自然と見えてきます。

2008/4/23

「ミラノデザインとイタリアデザイン」でイタリアの地域主義について触れました。ミラノのデザインについて「家具や雑貨は気楽でいいね」というのがトリノのデザイナーです。自動車産業のメッカであるトリノのカーデザイナーは、クルマのようにレギュレーションのないソファのデザインを「アイデアさえあればできるものね」という皮肉をこめて評します。ですからミラノサローネに対しても距離をおいてきました。

カーデザインの巨匠であるジュージャロも「クルマとその他のデザインは文化は違う」と語り、「クルマ以外の工業デザインもやってきたが、カフェマシーンをデザインするのも一台のクルマをデザインするのも労力は同じ。とするとクルマに注力せざるをえない。クルマ以外の仕事がオファーされれば拒否しないが、自分からアイデアをもって売り込むことはしない」と最近の新聞インタビューでも答えています。

そういうなかで、トリノが World Design Capital 2008で様々なイベントやコンフェランスを実施し、その一つのイベントとしてミラノデザインの十八番であるコンパッソ・ドーロのコレクションの展示と授賞を行うのは、実に興味深いです。このWorld Design Capital 2008 によってトリノがヨーロッパレベルのデザイン都市への飛躍を図ろうとするのは、もはやミラノだトリノだと反目しあっている時代ではない、とのイタリアデザインの危機意識のあらわれとも理解できます。

いずれにせよ、ミラノサローネを手探りで実感だけで見て回る時期ではないことは確かです。クラシック音楽や美術を鑑賞するに一定のレベルの知識と見方をマスターしないと本当に楽しめないのと同様、ミラノサローネについても同じことが言えるでしょう。

2008/4/24

2008ミラノサローネが月曜日に終わり、関係者は疲れた顔をしています。色々な感想が聞こえてきますが、まずは欧州のあるデザイナーと話し合ったことを書きましょう。

レクサスは欧州でまだブランドとして確立されていません。線の細い弱々しいと思われるコンセプトの見せ方がその原因ではないか、と以前から彼とは意見を言い合ってきました。高級セダンの世界にある強い男性的なイメージからすると、レクサスの表現は受けにくいのではないかとぼくと彼の意見は一致していました。

レクサスは過去3回サローネで白やシルバーを基調にしてきました。製品コンセプト自身のよしあしはさておき、それらのカラーで欧州人に上手くコンセプトが伝わらなかっていなかったことは確かなようです。その意味で今回ハイブリッドSUVの黒を基調にしたのは、対抗するドイツ車と同じであるにせよ、方向転換として正解だったと思います。だからこそ、21日に書いたように、その黒の意味を説明するべきだと思いました。ドイツ車の後追いと思われない工夫が必要だったと思うのです。

冒頭のデザイナーは、レスサスの今までのイメージはキャノンが再現した長谷川等伯の松林図屏風を想起させると言っています。白と黒の枯れた世界です。この作品をアートとして高く評価しても、やはり高級セダンのイメージには似合いません。レクサスがコンセプトを伝えたい気持ちはぼく自身もすごく良く分かります。それは過去3回も同じように感じました。しかし、コンセプトを伝えきれないのです。どこかに回路が不足しているか、欧州の人たちの理解の仕方をうまく把握していない、そのどちらかであると考えます。

2008/4/25

2008ミラノサローネのタイトルで書いている他の方のブログも読んでいます。皆さんお疲れでしょうから、まとまった形のものはまだ少ないです。そのなかでreikoyamamotoさんというライターは随分と精力的にアップされています。グーグルのブログ検索でチェックすると、メトロクスの本ブログとこの方のブログが上位にランクされています。

市内をたくさん歩き回れたようで、その成果を次々と書いています。ぼくが見ていないものが多く紹介されており、とても役立っています。「俺様的世界の追求」にある彼女の意見に頷きながら、この方とぼくのブログの視点の違いがどこにあるか、それに気づいたのが日本企業の展示に関する部分です。

reikoyamamotoさんはレクサスの例を挙げ、社内と社外デザイナーがとても上手く協業できたことを、デザイナー本人のコメントを含め紹介しています。ぼくも過去3回のレクサスをみても同じように感じました。つまりトヨタ社内と社外デザイナーの関係はとても良かったのだろうと、僕自身も想像しました。トヨタ自身の経済的余裕がそれを促すだろうし、トヨタ社員が物事をロジカルにとらえようとする姿勢もプラスに働いていると思います。もちろん社外デザイナーの質の高さは言うまでもありません。しかし、レクサスのコンセプトがなかなか欧州の人たちに伝え切れていない、その局面にチームはどう切り込んだのかに言及されていないのが実に惜しいと思いました。

ミラノサローネでの展示は、通常の媒体の宣伝や広報あるいはモーターショーでは伝達しきれていない部分を如何にカバーするかに意味があるのだと考えます。何度も書いているように、広義のデザインを語り合う場へのプレゼンテーションとして効果的だったかどうか。そして日本人に対してではなく、欧州人に対してちゃんとこの場が役立つように構成されたのかどうか、それらが一番肝心なことではないかと思っています。そういう観点からの感想や意見が、reikoyamamotoさんやその他の方たちのレポートから出てくるのを期待しています。

2008/4/28

友人から聞きました。欧州のあるデザイン批評家が、トリエンナーレでのキャノンの展示を「表現が稚拙で古臭いコンセプトだ」と彼に話したそうです。ぼくはそれを聞いて、なるほどと思いました。キャノンは、リアルとコピー、現実と非現実を三つのセクションで表現しました。日経BPに記事があるので、説明と写真を見てください。

ぼくがなるほどと思ったのは、このキャノンの展示をみた時、あるコンテンポラリーアートの作品を想起したからです。 それは、この「2008ミラノサローネ」シリーズの(5)以降で紹介した、廣瀬智央氏の作品です。作家は、「レモンプロジェクト」で、ものの存在自身を問いました。床一面にレモンがしき詰められています。壁はレモンと同色です。そして床のレモンの上にはガラスのブリッジがかかっています。床のある本物のレモン。しかし、これには農薬が使用されており、人の手が加わっています。壁のレモン色。ここには本物のレモンを使った香料が塗られています。すべては相対化され、リアリティの危うさが語られています。

画像4

1997年から2001年にかけて、各地で展示されました。この作品と比較してしまうと、今回のキャノンの展示はどうも見劣りしてしまうのではないか。そういう印象をぼくは持っていたのです。狭義のデザインのレベルで語るならば、コンテンポラリーアートの作品を引用するのは躊躇します。しかし、今回のイベントについて、キャノンは広義のデザインからのアプローチを考えていたはずです。そうするとファインアートと表現を競う運命にあるといえます。

欧州においては、およそレプリカやコピーに対して冷淡な態度をとる文化があります。 本物とは何なのか、という基本を継続的に問い続ける土壌があります。そういう文化土壌のあるところでキャノンが更なるブランド性を獲得するには、コピーという技術をもっと別の文脈にひっぱっていく工夫が必要だったのではないかと思いました。この「別の文脈にひっぱっていく」ということに関しては、別のテーマで明日以降に書いてみます。

<以下、写真情報です>
Lemon Project 03, 1997/ 2001
Flesh lemon, Glass, Stainless, Paint, Essential Lemon oil
Dimensions variable
Installation view at Museum of Contemporary Art, Sidney, Australia, 2001
Photography by Greg Weight
Courtesy Museum of Contemporary Art, Sidney

2008/4/29

リナシェンテはミラノ大聖堂の横にある百貨店です。数年前、マネージメントが変わり、積極姿勢を表に出してきました。ブランドショップも精力的に揃えた風が伺えます。地階が食器などの雑貨売り場になっていますが、最近、ここの変化に驚きました。この数年間、この売り場の一角にはオリエンタル、それも特に和食器が並べられジャパニーズブームが盛り上がっていました。ところが、先週足を運ぶと、そのコーナーがなくなっていました。数種類、欧州味の和風モノが陳列しているだけでした。この百貨店を後にして他のショップをみても確認できたのは、和食器が動いていないということです。

もともと欧州で日本の陶磁器の市場が限られていることは周知のことです。JETROの「フランス における陶磁器製品の市場動向」レポートをみても明らかです。一種のマニア市場です。それにも関わらず、流通も商品企画のどちらもが和食ブームで足が浮ついて拡販に乗り出したが、ビジネスとして成立しないために歩を緩めたというのが今なのではないかと思います。外で寿司を食べるかもしれないけれど、自宅で和食を作る欧州人など稀なのでしょう。しかし、仮説3で書いたように、ことは陶磁器の商売だけでなく、日本人のデザイナーが表現するスタイルそのものが、ミニマリスト的にとらえられ、どうも見飽きられてきたという印象をもちました。実際、そう語る欧州人がぼくの周囲でも何人かいます。

デザイナーは通常、創作活動をするときに自分が何人であるかさほど考えないでしょう。でも、どうしても出てくる日本人らしさがあります。約30-40年間、欧州で活躍している日本人のデザイナーや建築家に「『日本人らしいね』と言われますか?」と聞くと、「どうも、ぼくはそう思っていなくても、どこかに出るらしいね」と一様に答えが返ってきます。どこか軽い質感や空間を作る。欧州人も軽いことに価値をおき、そう表現するが、欧州人が40なら、日本人は意識しなくても35という軽さを表現してしまう。こういうことがあります。

この差である5の行き場をどう考えるか、です。

2008/4/30

昨日、デザイナー本人が意識せずとも出てくる日本人らしさについて言及しました。2008ミラノサローネのレポートをブログで書かれている山本玲子さんが紹介しているサテリテで、ぼくは実際に何人かの日本人デザイナーに「あなたの作品は、欧州の人の目からみると、日本的ミニマリストと表現されると思いますが、そういうことを意識されていますか?」と質問しました。全員から、「いや、考えたこともないです」という言葉が返ってきました。

レクサスのコンセプトに弱々しいイメージがあり、 そのコンセプトが欧州でなかなか伝わりにくい状況をどうにかして打開する必要があるだろうとの指摘をしました。これは二つの見地からぼくは言っており、一つは欧州市場における販売実績に基づいていて、もう一つはミラノサローネという場における適切性を問題にしています。つまりミラノサローネという場が、女性的な表現よりも、強い男性的なイメージを受容しやすいなかで、今までの表現に難があったので、今回の表現は場への適正化を図ったという流れを暗示するものだったとぼくは想像しています。

欧州における日本の工業製品は他のアジア諸国製品におされ気味で、コミックやアニメのコンテンツ産業を促進すべしというのが日本の経済産業省の方針にもなっています。しかし、それはこの数年前に見聞きしていた実態とは違い、コンテンツ産業においても海外市場で苦戦していることが、コンテンツグローバル戦略のレポートを読むとよく分かります。昨日紹介した和食器の動きが鈍い事実ともかねあわせると、八方塞なのか?という質問が出てくるのも当然でしょう。

今まで西洋文化において男らしさの象徴とも思われていた胸毛を、脱毛する若い男性が欧州においてもじょじょに増えてきた 。時代はいずれにせよ変わるのです。ここにひとつのヒントがあります。

最後に。「フロシキバックの作り方」というブログを書かれているデザイナーの金山千恵さんの「サローネ会場でゾクッとするように私に降りてきた言葉:『自分を信じてデザインしたらいい』と。」という一文は、短いですが心に残りました。

2008/5/1

日本の家具メーカーの方が、ご自分のブログに2008ミラノサローネ報告を書いています。 この方が書いた、「今のうちの会社で通用する部分とやっぱりレベルUPが必要な部分がはっきりと分かりましたし、今後につながる出展であることは間違いありません」「日本の老舗と云われる家具メーカーも国の補助を受けて出展してましたが、客観的にみて魅力ある商品だったかどうかは・・・」という文章を読み、非常に正直な感想をお書きになったなと思いました。冷静な意見で良いです。ぼくは、このオークさんがお勤めの会社の家具を、レクサス展示場の上で拝見しました。オークさんがお書きになっているように、 欧州で売るためなら、いろいろな試行錯誤がまだ必要だろうと思います。

2008ミラノサローネ(32)で「欧州人が40なら、日本人は意識しなくても35という軽さを表現してしまう。こういうことがあります」「この差である5の行き場をどう考えるか、です」と書きました。あくまでも欧州市場で売るための前提で言うのですが、ぼくは35を40にあげていく発想では、難しいだろうと思います。日本人が得意とするカットしていく手法が使えません。あくまでも欧州の文脈に沿った形で、45から40へ、そして38あたりまで落とし込んでいくアプローチが必要なのではないかと思うのです。積み上げるのではなく、意図的により重いもの最初に選択し、それを軽くしていくというイメージです。

2008ミラノサローネ(7)で紹介したコンテンポラリーアーティストによる大理石の花器です。この作品で説明したように、作家は本来、西洋文化の重さの象徴と言われる大理石を使って、350キロあるモノ自身を浮かせ、水を張り、菊の花を浮かせたのです。ここでは、西洋、日本という従来の枠組みを全て取り払い、その関係性自身を問いかけたのでした。ある既知イメージをいっぺんにではなく、じょじょに崩しながら、 自分の持って行きたい場所に連れて行く。そういう手法を、ぼくは日本人デザイナーはもっととるべきではないかと、2008ミラノサローネの日本人デザイナーの作品をみながら思ったのです。

自分のデザインが欧州人にどう見られるか、という自覚化作業からスタートすることが大事だと考えます。

2008/5/7

先月21日のブログ「2008 ミラノサローネ(27)」で王宮で開催されている未来派のジャコモ・バッラの作品について触れました。100年前のクルマは今のクルマよりずっと遅かったはずなのに、その時に感じたスピードに対する表現をみると、とてもスピードの絶対値が違っているようには見えないのです。感覚的な部分をどう表すかは、今の技術開発の要です。今後、デザインに求められる何らかのヒントがこの展覧会にはあると思いましたが、同時に隣で開催されている、具象絵画のフランシス・ベーコンの展覧会とも通じるものがあるとは、21日には考えていませんでした。

先週、アイルランド生まれで、英国の哲学者のフランシス・ベーコンの末裔であるこの画家の展覧会を見ました。抽象表現には寄らず具象にこだわり、しかし全てがデフォルメされている姿は、写真にはない自己のイメージを描き出しています。ボクシングのゲームを描く彼の頭のなかには、連続的な動きを如何に二次元に落とし込んでいくかの格闘があったことがわかります。技術的なロジックを突き詰めた先に何が出てくるか、いや、出していくか、それが現代のデザインの一つのテーマですが、その意味で、バッラとベーコンの二つの展覧会は色々なことを示唆してくれています。

GWも終わり、ミラノサローネ関連のブログも色々と出てきました。帰国して即GW直前とあって皆さん、なかなかレポートを書けなかったのでしょう。お疲れ様です。サテリテに出展していたフーニオデザインの橋本潤さんのブログを読みました。橋本さんは、今回、優秀賞を受賞されたデザイナーですが、とてもきれいなデザインをされます。その橋本さんが、同じくサテリテに出展していた芹沢啓治さんの作品にシンパシーを感じると書いています。「なるほどなぁ」と思いました。お二人の作品を会場で拝見し、お二人とも話しました。芹沢さんとは2-3分という短い時間だったので、芹沢さんはぼくを覚えてないと思いますが、橋本さんとはもう少し長く話しました。

お二人とも、頭の柔らかい方だと思いました。それがデザインに出ていると感じたのです。ですから橋本さんが芹沢さんの作品に共感することに納得がいきました。それで芹沢さんのブログを読んでみました。ものすごい勢いで書いてます。「確かに展示会はお金がかかる。無駄金といわれればそうかもしれない。しかしながら、多くの来場者やメディア、メーカーと自分のブースで話すことによって得たものも少なからずある。ジョンさんのこうした話がきけたのも、この展示会のおかげである。デザインが戦略だとして、サテリテは戦略のひとつである。パフォーマンスは別として」とあります。

良い考え方だと思います。 イギリス人のデザイナーに「自分がいっしょに作りたいと思うプロダクトを特定の企業、作ってもらいたい企業にプレゼンをするのが効果的であること。(中略) 不特定多数を相手にしたデザインは、うつくしいかもしれないが、ビジネスにはなりにくいと いうこと。」というアドバイスを受けたとありますが、このような結論に至るには、まず自分自身がプロセスを踏んで、そう心から思うことが必要でしょう。やはりアウトプットありきです。そこから全てスタートします。

2008/5/8

「2008 ミラノサローネ(34)」でもとりあげましたが、経済産業省が事務局になって昨年まとめた「コンテンツグローバル戦略報告書」は、日本企業が如何に欧州で苦労しているかを吐露しています。

「日本のコンテンツ産業の国内市場規模は米国に次いで世界第二位である。しかしながら、この数年は微増に留まっている。日本のコンテンツ産業の海外市場依存度は1.96%と、米国の17.8%に遠く及ばない。これまで国内需要に支えられきた結果、海外でのビジネス展開が不足しており、わが国のコンテンツの潜在的な価値の高さを海外市場の拡大に活かせていない。また、強いと思われていた日本のコンテンツの競争力も、かつてのアドバンテージを失いつつあるとの指摘もあり、危機感の共有が必要な状況となっている」 という認識が前提になっています。

しかし、欧州市場に関しては「ローカライズはコストがかかるので、多くの地域で長い間売れるもの、単発的に大きく収入が見込めるものに傾斜せざるを得ない。多言語化のコストと収入との関係が非常にネック」と非常に情けないことを言っています。EUの文化政策は多様性の維持です。ローカライズのコストは必要経費です。

「 海外との交流は、新しい映像製作を生む契機になる。共同制作は、日本の場合、特殊な趣向性があるだけに、欧米と共同作業をすることは難しいとの経験をもつ。しかし、そうした挫折を超える独創的な共同制作があいえれば、それは革新的な交流だろう。可能性が強いのは、感性を共有しあえるアジア同士かもしれない」と実に後ろ向きです。ここでの問題は、「感性が共有しあえるアジア」という見方です。本当に共有しあえるでしょうか。

ぼくは、ミラノサローネのサテリテやその他の場所で作品を発表する日本のデザイナーたちにとって、この役所的な匂いが漂うレポートも、戦略を考えるにあたり参考になると思います。映像やアニメあるいはゲームなどのコンテンツ産業が足踏みしているところを、工業デザイナーの人たちは、やり方次第で脇をすり抜けて行けるだろうと思っています。サッカーで数人のバックを一人でドリブルで切り抜けるようなタイプであれば別ですが、パスを繋いでゴールに持ち込むタイプであれば、手もさることながら頭の使いようが重要だと思います。

2008/5/9

人は他人の文化にさほど詳しくもありません。日本の一般の人だって、イタリアといえばローマ帝国、ルネサンス、ファシストあたりが歴史の知識。あとはオペラ、料理。デザイン、サッカーや自転車が入れば凝り性の部類です。かなり断片的な知識です。しかし、それは外国文化に限らず、日常の生活においても同様です。だからこそ携帯電話のインターフェースを考えるとき、ユーザーのメンタルモデルをどうおさえるかが重要になるのでしょう。ですから、冒頭に戻りますが、人の他国イメージは実に断片的なパーツの組み合わせでできています。

以前、あるドイツ人のデザイナーに「あなたのイメージする日本とは何ですか?」と聞きました。そしたら即座に「静と動のバランスだ」と答えながら、桂離宮の本を出してきました。 「この空間が静だ。動はカワサキなどのバイクに代表されるイメージ」と言います。桂離宮の解説は丹下健三によるものでした。桂離宮は十分に知れた存在ですが、外国人は自国民が忘れてしまったような、あるいは見たこともないようなエレメントを取り出してきてイメージを作るのです。そして、情報をリアルに短時間でアップデイトできませんから、いきわい長いスパンでイメージが固定化されます。これが国民性と言われるような曖昧な指標になっていきます。

「2008 ミラノサローネ」でレクサスのことを何度かとりあげました。欧州の人たちが弱々しい女性的なイメージをもっていそうだと書きました。あえて言えば、それは、上のドイツ人デザイナーがイメージした「静」なのかもしれません。ぼくがサローネのサテリテで見た日本人デザイナーの作品も「静」を感じさせるものが多かった気がします。2008ミラノサローネのレポートを書いている山本玲子さんが、スワロフスキーでの吉岡徳仁氏の作品を前にして「それにしてもここは静かだ。あ、そか、こんな感覚って、むかし龍安寺の石庭で体験したのと同じ感じかもしれないな」と書いています。

サテリテの日本人デザイナーの作品に「静」を感じさせるものが多かったと書きましたが、「動」を予感させる「静」もありました。欧州人が日本のデザインにもっている固定的なイメージ、それは前述したように断片的な知識とイメージによって構成されていますが、「動」の周辺の文脈を作っていくことが、これからのテーマになるのではないかとも思います。この続きは、次回書きます。

2008/5/2

ぼくの友人が数ヶ月前こう語りました。

「イラクで100人が殺されたと報道するのはいい。でも、そこに悲しみや怒り、あるいは憎しみという感情を入れてはいけない。こころは、その場と時を共有してはじめて伝わるんだ。そのラインを超えてはいけない」

「今という時代、ネットでこころが瞬時に世界を駆け巡る。これはだめだ。ブッシュは911でこれをやったんだ。グーテンベルグの印刷術では、そういった即時性はなかった。が、今は瞬時だ。そしてTVは対多数だった。しかし、ネットの一対一で連鎖していく。ここに、今という時代の本質があると思う」

未来派のバッラが機械のスピードを表現していました。ベーコンはカメラで撮りきれない現実イメージを追求しました。 どちらも機械が作動する「動く現実」が目の前にあったわけですが、今、飛行機や新幹線のスピードを表現したいと思うアーティストはあまりいないでしょう。友人の言葉にあるように、情報やこころの伝わり方のほうに問題意識が移っていると思います。ただ、その背後にある、機械が作るリアリティへの関心は依然と強く、テーマとしてヴァーチャル空間を扱うのは至極自然な流れになっています。

ドイツのデザイナーが語った「静と動の日本」という言葉から、「動」についてはバイクを例にあげました。ぼくは、そのとき躍動感ある書の世界も「動」のイメージの一つかなと思いました。「静」であり「動」である表現があそこにはあります。考えてみると、ヴァーチャル世界というのは、ことのほか「静」にジャンルわけされるようなイメージがありながら、冒頭の話にあるように、絶対的なスピードがあり、まさしく「動」の世界があります。ぼくは、バッラの展覧会をみてから、現代における「動」とは何かなと考えていましたが、妙に友人の言葉とサローネ開幕前日に思ったことがよみがえってきました。

「2008 ミラノサローネ(23)」で書いた仮説1、「まったくの第一印象ですが、『そろそろ、欠けたロジックが求められる時代ではないか』というのが、ぼくの頭にふと浮かんだことです」が、この「動」とぼくの頭のなかでひっかかりはじめたのです。ベーコンが描いている人の顔はすべて部分的に欠けデフォルメされています。

2008/5/13

久しぶりにミラノサローネに来た建築家が興味深いことを言っていました。

「いままでイタリアの建築は、建材の使い方などでも非常に保守的で、ドイツやフランスで使っていても使わないことが多かった。耐久性に対する疑念や不安感がいつもつきまとう。その傾向は今も変わらないが、ガラスや鉄をより多く使うようになったのは確かだ。ボビザのミラノ工科大学やあの周辺の建築物をみていても、イタリア建築が軽さへ着実に進行しているのは確認できる。こういうのは市内を歩いているだけでは分からない。郊外の新しい建築を眺めてみないといけない。2015年の万博にむけて、どんどん新しい建物が増えていくので、ミラノ郊外は要注視だ」

「ミラノに入る高速道路でわざわざ傾けたビルをみたけど、最近、捩れや傾けた建物のプロジェクトが実に多い。あれはすごく金がかかる。お施主さんにもえらい負担だ。そんなにまでコストをかけて、ああいうフォルムにすることが、本当に良いことなのか、自信をもって『こうだ』 と言い難いと思うようになってきた」

「トリエンナーレのブックショップで現代アート関係の本をいろいろ眺めていて気づいたんだけど、中国アート の本がすごく多いのは分かるが、それらが中国人によって書かれた英語の本というのがすごい。日本アートの本は、日本人が書いた日本語の本の翻訳か、外国人が英語で書いた本、これらが圧倒的に多い。これではアート市場の規模も違ってくるわけだ」

軽いことに価値観が移動している、本当に良いこととは何なのか断言しづらいことが多くなってきている。こういうことを建築家は最初の二つの例をあげて示唆しています。三つ目は日本の発信力の弱さを指摘しているわけですが、同時に、発信力次第では、混沌とした状況のなかで、あるポジションを作ることが可能とも考えられます。時代は変わることは変わります。しかし、ドイツやフランスとイタリアの建材の使い方が違うように、その変わり方とスピードには文化差があります。この見方をおさえたプレゼンをしないと、欧州の人たち、それもデザイナーではなくビジネスサイドの人たちの納得を得にくいということになります。

2008/5/14

日経デザインのメルマガから久しぶりに日経デザインのサイトを覗きました。下川編集長のブログを日を遡って読んでいて、「サローネ・サテリテで考えた」に目がとまりました。4月17日に書いたものです。欧州のトップブランドの商品をみた後に、「これらのブランド存在感やビジネスの規模を目の当たりにすると、日本の家具ブランドがこれらと肩を並べる日が果たしてくるか? 永遠に来ないのでは? そんな思いにかられる」とあります。ぼくもその思いは分かります。たぶん、ブランド力という意味では、デザイナー個人あるいはデザイナーの興したブランド(ファッションの例をあげれば、特にフランスで成功したKENZO)に可能性があるだけだろうと思います。

サテリテに出展した日本人のデザイナーの作品をみて、 「彼らの目的はサローネ・サテリテを通したデビューやメーカーとの契約といった成功にほかならない。しかし、そのまなざしはどこを向いているだろうか? 日本の家具メーカーではなく、欧州の家具・雑貨メーカーの目に留まりたいというのが本音だ」 と書いています。ぼくには、今回の全員が本当に欧州で商売したいと考えているのかどうか分かりません。きっかけは求めているでしょう。ただ、日本の多くのクラシック音楽の歌い手や演奏家が、欧州の市場で正面から勝負をかけなくなっていると同様な現象は、メンタルな方向性でデザインも同じではないかと思わせるところがあります。

西洋クラシック音楽を日本人が関わる意味は、それこそ明治以来、論議されてきたことでしょう。欧州で売る西洋家具のデザインでも同じことが言えます。日本人がどうしてもひきずるエレメントを、欧州の文脈にどうもちこむかが一つのテーマになり、そのテーマへの解をロジカルに見せない限り、「(日本の)メーカーは『そのデザインで本当に売れるのか?』と言うだろう」というのは、当然です。一方、日本のメーカーの方は、その欧州の文脈とは何なのかよく分からないことが多いでしょうから、コミュニケーションはそこで切れます。それゆえに、欧州を第一に勝負すると決めた若いデザイナー以外は、足場がなかなか定まらない状況に陥るのだろうと思います。

ことはデザイン力そのものだけではなく、視点のおきかたです。 サテリテに出ている欧州の若手デザイナーはアジアを第一の市場として考えることなどなく、欧州のプラスアルファとしてアジアをみます。韓国のデザイナーは、ことによると欧州を第一と思う割合も多いかもしれません。しかし、日本のデザイナーにはどこが第一かと決めかねる迷いがある場合が多いような気がします。

2008/5/15

最近デザイン関係のブログを読んでいて気になることがあります。いわく「このごろの日本のデザインには深みがない。哲学や思想がない」という批評です。結論を言いましょう。必要なのは、コンセプトです。欧州のデザインが深いかどうか。それはおよそのところ、考え方の骨格がしっかりしていることが多いということでしょう。昨日のブログにも書いたように、前提として対象市場とユーザーが明確で迷いがないことが多いのです。そのうえで、ぼくがこの「2008 ミラノサローネ」で以前書いたことを、ここにペーストします。

「デザイン組織であるADIに触れました。これはデザイナーだけではなく、教育関係者、企業家、ジャーナリストなどが会員です。デザインが、非常に多層に渡って話題になるメカニズムが出来ているのです。そして欧州の文化的ストラクチャーとして、ハイカルチャーとローカルチャーのバランスと両者の回路について言及したように、ハイカルチャーをリファーしていく習慣や考え方があります」

「目の前にあるデザインが考え方として深いかどうかという問いかけをするとき、それは作品を作ったデザイナーの個人的性格や素養もありますが、今まで述べたような社会的あるいは文化的な仕組みによる部分も大きいわけです」

表参道や六本木あるいは秋葉原でトレンドをつかむ文化、美術館やコンテンポラリーアートのオープニングでトレンドをつかむ文化、ここには大きなひらきがあります。かつ、日本は技術をゲームや玩具的機能という能天気な方向に使うのを得意とし、それを独自の強みとしていこうという方向に顔を向けています。デザイナーの作品を「深くない」というのは簡単ですが、文化的及び産業的なメカニズムを考慮しないと、デザイナーに対して過剰期待になります。

欧州を欧州たらしめているのは、大きくいえば、今のEUへのトルコ加盟問題で論議されているようにキリスト教です。しかし、それでは本テーマを扱いづらいですから、以下のアイテムをあげておきましょう。「連続性へのこだわり」「コンテクストの存在」「メインカルチャーへの敬意」「多様性の維持」。これについて、次回以降、本「2008 ミラノサローネ」のまとめとして書きます。

2008/5/26

3月より続けてきた「2008 ミラノサローネ」ですが、まとめに入ります。このシリーズは欧州でデザインを発表し、欧州の人たちに受容されるために何に配慮すると良いかを書いてきました。「ミラノで発表された」という事実をもって日本市場へPRするという目的の発表は除外しています。それでは、欧州文化とは何をもって特徴づけられるのか、それについてぼくの意見を書いておこうと思います。何かの教科書に書いてあることではなく、ぼくの経験上からの言葉です。「連続性へのこだわり」「コンテクストの存在」「メインカルチャーへの敬意」「多様性の維持」 と昨日列挙しましたので、今日は「連続性へのこだわり」を説明します。

連続性とは、論理的連続性、地理的連続性、 時間的連続性、この三つを指します。まず論理的連続性、これは(3)で書いた「ヨーロッパの人たちは、パワーポイントではなく、まずワードでびっしりと文章を書くことが多いです。もちろん分野にもよります。あくまでも比ゆ的な話とし て読んでください。目の前に陳列されているのがプロトであれなんであれ、この文章に書いてあることを理解することがキーです」が該当します。道を覚えるのも、通りの名前を連続で水平に覚えていきます。日本人の多く、特に男性が鳥瞰的にゾーンで覚えるのとは違います。

地理的連続性、これは地続きであることを指します。 それにより、ある商品開発をするとき、少なくても近隣の数カ国の市場を同時に想定します。想定できるほどの、ある程度の文化的勘が働くのです。すなわち何も経験もないところに勘は働きませんから、近隣の人たちとの接触が何らかの形で経験があるということになります。イタリアであれば、ドイツ、オーストリー、スイス、フランス、これらの国の生活がおよそのところ、商品企画者かデザイナーの頭には入っています。

時間的連続性、多くの石造りの建築が時代によって様式や意匠を変えるように、常に前の時代との接点があります。1950年代にボローニャという共産主義の強い都市で、「歴史遺産の保存は革新である」と都市計画者が宣言しました。それまで歴史尊重は右派的は考え方であるとみなされてきたのです。そして、これが、欧州の都市計画で先端的な考え方となりました。(27)で「新しいデザインは歴史との対話で生まれてこそ長く生きれるものとなります。過去の名作に勝たないといけないのです。そのためには、十分に考えるある程度の 時間が必要です。静かな空間でじっくりと過去と向き合い、新しいデザインと出会い、そして同時に色々な分野の文化潮流を俯瞰することです」と記しました。

次回は「コンテクストの存在」について書きます。

2008/5/19

欧州文化の特色、二つ目です。「コンテクストの存在」と書きましたが、コンテクストとは、テキストを共有するという意味です。つまり、同じベースをもっているかどうかということです。あくまでも日本との比較ですが、日本では歴史の把握に連続性が欠け、皆が同じように持つべき知識や観念が断片的になっているのに対し、欧州では、「まだ」共通の話題が持てる傾向にあることが、コンテクストの存在を挙げた理由です。

その筆頭は、キリスト教になります。カトリックやプロテスタントなど色々と分かれていても、キリスト教という括りでいけば、 聖書の内容をどんな欧州人も何らかの角度から触れることができます。以前のように日曜に教会に通う人は少なくなりました。クリスマスや復活祭など、何らかのイベントの際にしか教会に出かけない人が多くなりました。かつて洗礼をうけたけどそのままという人が多いなかで、しかしながら、小学校から宗教の授業がある(選択制であっても)など基礎メカニズムは失っていません。

教養という点でも、共通のテーマがあります。ギリシャやローマ、あるいはルネサンス文化について語り合うことは、日本で飛鳥時代や平安時代の文化を語り合うより易しいでしょう。 それは、教養の範囲が分散していないからです。欧州での教養は、東洋の文化について知っていることを期待されていません。もっと日常生活に関わることで言えば、食生活がそうです。日本では和食にプラスして西洋料理とインド料理と中華料理が家庭料理化しています。しかし、欧州ではよほどの人でなければ、外食で中華や和食を食べても、自宅ではそれらを作りません。

このように、話題や選択肢の範囲が比較的限定されていることが多いことが、一見、新しいことにノリが悪く見えたりすることもありますが、話題になるテーマについては、やや深いところまで突っ込むことができるようになります。ここで少々注釈を加えておきますが、ぼく自身は、日本の多選択主義を悪いとは思っておらず、欧州が逆のタイプだからこそ、日本が多くの国の文化についても詳しいのは優位性をもつのに効果的であろうと考えています。しかし、それにしても、冒頭で述べたように、あまりに断片が浮遊するような姿はいけないでしょう。

2008/5/20

「メインカルチャーへの敬意」です。メインはサブカルチャーに対応するものです。ハイカチャーと言っても良いでしょう。もともと大衆文化に対比して位置づけしますから、かつて大学の教養科目に入ってきたような哲学や純文学などが対象になります。ただ、ポップミュージックや漫画も大学での研究対象となってきている今、 全てがなし崩し的にメインカルチャーになった感もあります。いずれにせよ、こうしたメインカルチャーに対する敬意が残っていて、それがより日常生活に近いところで生きている。それが欧州文化だと思います。

ピエール・ポランはそうしたメインカルチャーは、20世紀に入り凋落の一途であったと語っていますが(会員限定のコンテンツで、ピエール・ポランのインタビューをお読みください)、21世紀の現在、19世紀的貴族文化を求めるわけにもいきません。メインカルチャーに若干の権威主義的な排他性があることは事実で、それに対する反逆的な動きもありましたが、上位にある文化を貶めないメカニズムが一方で強く働いているのが欧州なのです。以前、日本のコンテンポラリーアートとメインカルチャーとの繋がりに関心をもったイタリアの研究者のことを書きましたが、「メインカルチャーはそれをどう見るか?」という観点が参照されることが多いのです。

サブカルチャーもメインカルチャーも何となく曖昧な線引きになりつつあるのは確かながら、でもメインカルチャーの吸引力が強くある。欧州のその特色を忘れていると、思わぬところからの至極全うな意見に戸惑うでしょう。サブカルチャー特有のちょっとしたお祭り騒ぎに、冷水をかけられた気になるかもしれません。ぼくは、メインカルチャーあってのサブカルチャーであり、サブカルチャーあってのメインカルチャーという二つのバランスはとても重要だと考えており、両方への目配りは大切だと思っています。

2008/5/22

欧州文化とは何かの最後の項目です。「多様性の維持」は、EUのポリシーに典型的に表現されています。EUでは実際に個々に話す言葉は英語やフランス語になっても、正式な会議では全て各国言語の通訳がつき、文書も翻訳されます。各々の文化の根幹をなす言語については、どの言語にも優勢性を与えることをしないわけです。膨大な費用になります。しかし、それを必要コストとみなしています。もともと様々な文化が共存する欧州ですが、ここで紹介したポリシーは、人々の感情を刺激しない工夫のひとつだと思います。

EUはその成立の背景に、もうお互いに戦争して疲弊するのはごめんだという悲痛な叫びと、米国や旧ソ連へ対抗する勢力圏を確立したいとの希望がありました。特にお互いの国民が好きでチームを組もうとしたのではありません。確かにフランス文化好きのドイツ人もイタリア人もいますが、それはごく一部の知識人であり、一般的に、何も具体的な異文化接触の経験がなければ、どの国民も他の国民を「変わった連中だ」としか思いません。そのような認識が根底にあります。だからこそ、それぞれの感情が平穏であるための方策が必要です。

この多様性の維持が、そこで生み出されるコンセプトをより豊かで強靭なものにする遠因になります。即ち、(42)で書いた(論理的、地理的、時間的)連続性と多様性が交差することによって、色々なアングルからの仮説と検証をいやおうなしに迫られます。もし、欧州文化に何らかの深さを感じるなら、それはこうした必然性が背景にあることを考えるとよいでしょう。そして、欧州の人たちのために何かをデザインするなら、これらの要素に少しでも触れていると良いはずです。

2008/5/23

「2008 ミラノサローネ」と題したシリーズをはじめたのが3月6日。46回となっていますが、実はダブルカウントが一回あるので、47回が正解です。約2ヶ月半のあいだ、ミラノサローネについて考えてきたわけです。毎日書いていたら、これだけ続いてしまったというのが実感です。これまで掲載してきた内容に少々解説を加え、会員限定コンテンツ「ミラノサローネ2009の見方入門」として近日中にまとめる予定です。たぶん、ここで書いてきたことは、来年のサローネ見学に少々お役に立てるのではないかと思い2009としたわけです。以下が、目次のアイデアです。どうぞ、お楽しみに。

第一章 サローネ見学のための準備運動 

01 デザインの祭典
02 トレンドの海図をもつ
03 ワードを書く欧州人
04 バウハウスの再評価
05 時代を読み解く
06 村上隆『芸術起業論』
07 重さと軽さの表現
08 関係性を遊ぶ
09 記憶プロセスを考える
10 文章と口で説明する
11 モノ偏重を是正する
12 デザインの翻訳作業
13 文化全体の文脈をおさえる
14 ローコンテクストカルチャー対策
15 サローネで雑談を試みる

第二章 サローネで色々と見て感じる

16 仮説1「暖かい知性への道」
17 2010年からの戦略立案
18 仮説2「日本的デザインへの飽き」
19 深さを作るメカニズム
20 未来派バッラが問うもの
21 過去の名作との戦い
22 World Design Capital 2008

第三章 サローネの後に考えること

23 レクサスのコンセプトの伝え方
24 二つの視点をもつ
25 アートと競うデザイン
26 思ったより売れない和食器
27 ミニマリストのこれから
28 欧州人から見られる日本デザイン
29 はじめにアウトプットありき
30 足踏みするコンテンツ産業
31 静かな日本デザイン
32 いまという時代の特質
33 発信力をつける
34 若手デザイナーの視線
35 コンセプトの重要性

第四章 欧州文化の見方を知る

36 欧州文化とはー1 連続性
37 欧州文化とはー2 コンテクストの存在
38 欧州文化とはー3 メインカルチャーへの敬意
39 欧州文化とはー4 多様性の維持






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