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「人間性」と「人間らしさ」の間にある距離を考える

山懸さん

往復書簡に書こう書こうと思いながら、けっこう、時間がたってしまいました。最後に書簡を書いたのは、2か月前の以下でした。

この数か月、当たり前にある言葉が指し示す概念をぼく自身、理解が十分でなかったとの反省からいろいろと考えてきました。あえて2つ挙げると下記です。

1)「人間中心設計」が、ユーザー中心との表現でデバイスとユーザーの間にある切り取られた一瞬のシーンの効率化を指している。人の人生・生活(ライフ)を視野に入れていない、とのクリッペンドルフの批判から顧みる「人間中心」の意味の問い直しがあります。ロンドンの大学でソーシャルイノベーションを学んでいる林さんあてに書いた「人間中心に安住しないアプローチをとる心構え」が、この議論にあたります。

2)「人間性」も再考の対象です。2024年に落成するブルネッロクチネッリのソロメオ・ユニバーサル図書館構想の発表で聴いた「人間性」との言葉の意味。こんなにも聞き飽きるほど耳にして、自分でも何万回と使ってきた言葉の意味をどうも誤解していたのではないか?と思い始めたのですね。先のリンクは日経COMEMOの記事ですが、サンケイビズに書いた記事もリンクをはっておきます。

恥ずかしながら、「人間性」と「人間らしさ」のある間にある距離に今さらながらに気がついたのです。人権や自由が人間らしさを成立させる要素であるとの捉え方、一方で人間らしさにあるもっと明るい開放的イメージ(イタリア語のウマニタと発するときにある、「タ」がもつ音の明るさ。ヒューマニティに、そういう明るさがあるか?)。それらの両方をぼくは常に考慮していたとは言い難い。それに対する反省と議論の発展です。

延々とさまざまなことを議論していながら、根幹のところへの押さえが甘かったのはないかと思うのです。全体像を掴むと言いながら、およそ「人間」の全体像へ迫るにあたり、自らの視点が不足しているのをあまり意識していなかったとの想いがあるわけですね。

いや、もちろん、1人で分かることなんて限りがあるわけで、それを越えられなかったと言うのは傲慢でさえあります。ただ、ここで言いたいのは謙虚であったとしても、限度のラインにもっと自覚的でありたかったです、とのこと。 

・・・で、このような反省にたどり着くと、「さて、何がテクニカルなのか?」が徐々に見えてくる気がします。テクニカルなことを下に見ているわけではなく、テクニカルなところを支える「下層」というか「底層」の存在に敏感になります。ちょうどブローデルの歴史観にある「底層」を比喩にもってこられるかもしれないです。

例えば、「人権」や「自由」はテクニカルなタームなのでしょうか?テクニカルにも使われる。でもそれだけではない。文化圏や法律体系によって範囲が違うだけでなく、もっと「人間らしさ」をともなった、良い意味で曖昧な言葉でしょう。かといって、人間らしさ=人権でもないと明記しておかないといけない。そんな言葉や概念なのでしょう。

「人間性」も、そうです。機械的でないものが人間的である、というような、本末転倒な見方も闊歩している感じがします。「ロボットやAIができないところをやれるのが人間なんですよ」と、みなさん何気なくものの分かったようなことをおっしゃる。でも、引き算で人間存在を捉えている。どうもひっかかるんですね。

このロジックの延長線上に、もうひとつの罠となる表現があります。「人間中心から地球中心の考え方へ」です。自然の一部に人間があると気づくのは大いに結構。自然との共生というより、自然に生かされている人間との視点ですね。これが悪いわけがない。でも、人間らしさをどう考えるの?との問いが、どうしてもつきまとうのです。上記のサンケイビズにも書いた「人間らしさの人類史」を考慮すれば、そう簡単に言えないと思うのです。

加えて、山懸さんも「〇〇中心」との言い方は何に対してであれ、怪しいとおっしゃっていましたが、前述のクリッペンドルフのところでも触れた、人間中心の怪しさと同等に地球中心も危ない。宇宙中心ならいい?じゃあ、どこまで?つまり、「〇〇中心」と示して安心している(風の)姿勢そのものに疑問符がつくのです。

謙虚であれーこれは本当に鍵です。謙虚でないとモノゴトが見えてこない。つくづく実感しています。

写真©Ken Anzai



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