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ピエール・ポランに会いに行く。

2008年1月23日

前回までの「マックス・ビルのポスターを作ろう」が思いもかけないほどの反響があり、気をよくしています(笑)。色々と問い合わせもありました。本当はちょっと休もうと思ったのですが、この調子でしばらく書いていくことにします。

さて、時は今から数年前。場所はパリ。僕たち(「たち」の相手は前回同様下坪さんです)の前には女性弁護士。あっ、まず気分をパリに変えないといけませんね。じゃあ、パリの写真でトリップしてください。

僕たちは、この弁護士と製造権と販売権に関する契約金の協議をしていました。フランスを代表するデザイナー、ピエール・ポランのデスクを何とか復刻させようとしたのです。1950年代半ばに発表されたものですが、長い間、生産中止になっていたのです。偶然、下坪さんは、これをパリの蚤の市でみつけ、「ものにしたい!!」と燃えていたわけです。「そりゃあ、頑張らねばならぬ」と、著作権者探しの旅に僕はでました。そうして、やっとパリで交渉代理人である弁護士と会えたというわけ。

こちらは、デスクのどこかにポラン本人のサインを刻印したかったのですね。が、「そういうのは、依頼人であるピエールがもっとも嫌うこと」と弁護士は主張。まあ、ポランは慎ましい人だとも聞いていたので、「こりゃあ、諦めるしかないかなぁ」と僕たちも弱気になってきました。

2008年1月24日

パリの弁護士事務所で僕たちも粘りました。「じゃあ、申し訳ないけど、ご本人に電話をして、サインを入れてもらえるかどうか確認してくれませんか?」と交渉代理人には少々失礼なお願いをしたのです。弁護士は、しぶしぶ、本当に「しぶしぶ」顔の表情で電話しました。

その結果が、上の写真です。「人目につく場所は駄目だけど、引き出しの中ならいい」という回答をもらったわけです。これぞポランのセンス! 作品にも大げさな名前はつけず、記号的な番号をつけるのです。

その彼と実際に会ったのは、それから1年以上経てからです。場所はまたまた山の中! フランスの南西部、スペインとの国境をまたぐピレネー山脈もそう遠くないところ。ここの家で、彼の親友の話をしてくれたのですね。もう亡くなったデザイナーですが、下の作品を作った人です。

「パントンと僕は並行に生きてきた、と言えるだろうな。どちらも特に大きな影響を与えることもなく、同じような速度で進んできたんだね。」 とポランはゆっくりと言葉を選びます。 「同じ時代を生きながら、まったく違うデザインをしてきたが、社会や時代に対する考え方は共通するものが多かったということですね?」と問いかけると、「そう、お互いに尊敬しあっていたね」と彼は答えます。

2008年1月24日

フィンランドのロヴァニエミといえばサンタクロースの北極圏の街ですが、アルヴァー・アールトが都市計画に関わり多くの作品があることでも有名です。第二次大戦が終わって数年を経た1950年前後、ピエール・ポランはこの街を訪れます。

幼少のポランにはクルマ関係の仕事をしていた大好きな叔父さんがいました。ベントレーやロールスロイスがクライアントで、小さなピエールもカーデザインには憧れました。この叔父さん、ドイツのメッサー・シュミット戦闘機の部品を作ってもいたのですね。そう、英国側のためにドイツ軍のスパイもやっていたらしく、結局、フランス人のゲシュタボに見つかり処刑されてしまいます。1924年のことです。

このような辛い戦争を経て平和な時代となった、しかし、あらゆるところに戦禍のあとがみえる1950年前後、ポランはフィンランドで衝撃的なデザインに出会ったのです。スウェーデンを筆頭に北欧デザインが世界をリードしていた頃です。別の機会にも書きますが、この頃、北欧デザインに憧れていた人たちはものすごく多い。例えば、下のチェアをデザインしたイタリア人のピレッティなどもそうです。彼はヤコブセンに弟子入りしました。イタリアがヨーロッパのデザインセンターとなる前のことです。

ポランはフィンランドでモダンと遭遇しました。森の中にも、戦時中に司令塔として使われたのであろう丸太が積まれたまま残り、多くのスキー板が虫に食われたまま放置されている、そういう風景から一歩出たところでアールトのデザインをみたのです。

こういう話をポランは夜遅くまで自宅で僕たちにしてくれました。下の写真は中庭を囲む廊下で、ポランの試作品のチェアが置いてあります。その晩、僕はこの突き当たりの部屋で寝ました。

2008年1月25日

ポランはとっても気のいいシャイなおじいさんです。 彼の気の利いた名言の数々を書きたいのですが、それは別の機会にして、今回はデザイン寄りの話を進めましょう。この年代のデザイナーの例に漏れず、先に述べたスカンディナヴィアと米国デザイナーの影響を強く受けています。ネルソンやイームズといった人たちです。「イームズはテクニック以外のことで人を満足させようとしない、潔癖な人だった」とポランは語ります。

ご存知のイームズチェア、 彼の自宅のTVの前に二つ並んでいました。ところで、プチデスクをデザインした頃に話を移しましょう。北欧の旅を終えた彼は、トネ社に売り込みをかけます。生活費のために自分で営業をしたのは、後にも先にも、この時だけだったと述懐します。あまりに沢山デザインしたので、いまや、どれをいつデザインしたのかも覚えていない、とも。それでも記憶を辿り、「プチビュローは54年にデザインし、生産は10年間くらいは続いたのでは・・・」と思い出してくれました。

こういう表情をしながら、昔の過ぎ去った日々のことを熱心に語ってくれたのです。「このデスクは、とてもシンプルなデザインですが、60年代になるとオーガニックなかたちが多くなりますね」と話すと、「新しい技術の影響は大きかったよ。新技術が新しいデザインを生んだわけだね」と60年以降の変貌に触れていきます。

2008年1月26日

山の中とは聞いていたけれど、こんなに人里離れた場所とは、到着するまで想像もしませんでした。視界のどこかに他の家が見えるものだと勝手に思っていたのでしたが、いやあ、本当に何もない・・・・山火事になったら大変だろうなぁと心配してしまいます。奥さんであり、強力なビジネスパートナーでもあるマヤさん、そして愛犬と生活しています。

会話のなかでは、こんな台詞も。「ル・コルビジェも家具のデザインはしていないんだ。シャリオット・ベリアンのデザインだからね。イームズも半分は奥さんの働きだということを忘れてはいけない。ワイフは大切だ(笑)。」  これはポランが「過去のことを色々と覚えていない」と言ったら、マヤさんは「私の誕生日もね」と。そこにポランは「1942年5月9日」と即答。そして、パートナーの大切さを語ったのでした。

ポランについては、まだまだ沢山ネタがあり、また別の機会に書きます。昨年ミラノのサローネ時、ホテルで夫妻と会った時も超多忙でした。80歳を迎えたこともあり、数々のイベントが目白押しだったのです。が、2008年の今年も、ポランは1月からパリやケルンを飛び回っています。そして、彼が歴代大統領のために内装をてがけたエリゼ宮では、今、恋の噂が盛んです・・・。




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