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ブローデル『地中海世界』-歴史

地中海世界には3つの文化的共同体がある。考え方、信仰、食べ物、飲み物、生き方を巡って、3つの塊が延々と時間を経て続いているのだ。1つめは、西欧(キリスト教圏あるいはローマ文化圏)であり、大西洋、北海、ライン河、ダニューブ河流域まで広がる。2つめがイスラム圏。モロッコから東南アジア諸島群をカバーし、反西ヨーロッパ(相補的敵対者)と言える。3つ目が、ギリシャ世界(正教会)だ。バルカン半島全域、ギリシャ、ロシアとこれまた広域だが、この文化圏の特徴は象徴的中心がないことだ。

ただし、ここで注意しなければいけない点がある。ローマ文化圏はキリストと共にはじまり、イスラム圏は7世紀のマホメット、正教会は330年のコンスタンティノープルの建設に起源があるのではない。それ以前から、それぞれの地域には諸価値があり、それらを内包したうえで前述の3つの圏がある。そして、これらの諸価値の体系は、紀元後の2000年を経ても常に底流に生き続けている(地理的条件も当然だが)。文明とは繰り返されてきたある生き方、無数の態度なのだ。

よってと言うべきか、十分に構造化された文明は、規則的な失敗を経るごとに文化的ナショナリズムを高める。つまり戦争と憎悪が生まれ、それを糧として生きるのが文明である。それが西欧とイスラム圏の歴史でもあるのだ。だが誤解、軽蔑、嫌悪だけでなく、文化財の普及伝播、蓄積、知的遺産という側面が文明にはある。だから現在、同じ憎悪をもつことなく、人々は戦争や憎悪の跡を観光することができる。

かといって、文明が歴史の全てを語れるわけでなく政治は重要なアクターだ。ローマは地中海世界に意思と政治的統一を押し付けた。文化的な対立や軋轢はそのままに、政治と制度という高次元の言葉を押し付けたのである。また同時に経済も大切なパートである。政治の支配者よりも、交易の支配者、ビジネス上の不均衡や高低差を支配する支配者が上にたつこともある。11世紀から16世紀のイタリアの中部から北に位置する諸都市が保有した船が地中海世界で突出した繁栄を築いたのは、その事例である。

このイタリアの地位が低下したのは、アメリカ大陸発見や喜望峰周航を機に、15世紀後半より徐々に中心が地中海から大西洋に移動したからである。しかし低下は一気にではなく、17世紀初頭まで銀、胡椒、香辛料の流通ルートも十分にイタリアが機能していたためスローな推移だったのだ。その後にプロテスタント諸国が内海にも乗り出し、特にオランダ人やイギリス人が覇権を握りだすのだった。そして地中海世界への政治的地盤沈下への決定打が19世紀後半のスエズ運河の開通だ。

<分かったこと>

文明が多層からできていることは良く知られている。原始宗教などは、一番底にあるレイヤーとして理解されている。だから現代の西欧においてキリスト教信者が激減しているにも関わらず、他の文明圏の人はある現象を捉えて「それはキリスト教を通して理解すべきなのでは?」とレイヤーを深堀しようとする。それは態度として一見誠実そうに見えるが、現実分析からの逃避であることがある。現実をみるには、文明、政治、経済などのいくつかの指標がどう拮抗しているかを可能な限り把握することだ。レイヤーを深くいけばよいということではない。


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