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風景は方向とのセットで考えるー欧州文化像のつづき

夏野さん

フィードバックありがとうございました。以下を読み、いくつか思うことがあるので、ここに書いておきます。

イタリア語だとdeterminato 、英語ではdetermined という言葉が人を評価するときによく使われますね。特に従来型のリーダーシップ像として、自分の考えに確信をもった人を肯定的にみます。日本でも「しっかりと自分の考えをもっている」「信念のある」「ブレない」のは当然ながら、プラス評価です。ただ、イタリア語の場合、もっと範囲が広く、物事の進め方にアクセントがおかれたりとの印象があります。

一方、皆が皆、このタイプであると「船頭多くして船山に上る」との理解も当然あり、性格や知恵かによって船員になるのが向いていると自覚している人は、船員を演じます。しかし、これ、「演じる」とのニュアンスがあるのですね。このニュアンスをどう捉えるか?です。

先日、ミラノでチーム構築の研修講師などをやっている人に、「イタリアの人を相手にして何が一番障壁ですか?」と聞いたら、「interdipendenza の大切さを理解してもらうのが大変」と答えてくれました。持ちつ持たれつでないとチームが成立しないわけですから、「かつてのように強い1人のヒーローのようなリーダーが皆をひっぱっていくカタチはもう非実践的であり、チームワークが優先されますよね。それでinterdipendenzaを教えるわけです」ときます。

このセリフを日本の人が聴いて、「ああ、我々の方が有利になったのですね!」と反応する人がいますが、誤解です。個々に考えを深めたうえでのinterdipendenza が重要なのであり、日本で「1人で考えるのが苦手」という人の相互依存とは重なるようでいて、微妙以上のレベルで実はずれているのですね。

ただ、繰り返しますが、今や神のようなヒーローに頼るのは危険すぎるだけでなく、それでは複雑怪奇な状況に直面できないとの認識は、少なくても欧州のビジネスをやっている人たちの間では当たり前に定着しています。

そして、多くの人が教会から距離をもつようになり、イスラム圏やその他の移民たちの言動やその社会的な影響から「何を基準として考えるべきか?」は多くの人の苦難になっています。白洲次郎が欧州人とつきあった時代はあまりに遠いのです。かつ、米国の政治の方が宗教への距離感が違うのもみても分かるように、このあたりで米国と欧州を一緒にして論じるのは違和感があります。

それらを踏まえた上で、何かを考える時、「全体像を最初に構想するか?ディテールの積み上げでいくか?」との文化差は、日本と欧州に厳然とあるでしょう。たとえ、「スモールスタートで、アジャイルでやろうね」と欧州人が掛け声をかけたとしても、上述のinterdipendenzaで紹介したように、ぼんやりとでも見ている風景が、良くも悪くも違うのですね。

それが世界観や価値との話に繋がりますが、「方向」と「風景」がセットで欧州人の頭のなかにある傾向は強いと思います。同じ風景が周囲にあっても方向によって見え方が違う。この点にどの程度(習慣的に)意識しているか?が、夏野さんの指摘されたところに関係してきます。

尚、新しいタイプのリーダーシップについては、以下に書いています。

写真©Ken Anzai



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