「生きる」って何だろう?

「生きる」と一言で言ってもいろいろ定義がある。

生物学的には母体から出生し、脳死するまでのことかもしれない。

しかし、今私たちが「生きる」と意識しているのは、意識上のことであるから、生物学的な意味は、実はあまり関係ない。

むしろ、人文学的な定義の方が大事なのかもしれない。

50歳近くになると、それなりに友人や親せきの死も経験する。

その中で、「生きる」というのは、「人生の物語を書く」ということだと気付いた。

そしてそれは、自分の人生だけの「短編小説」ではない。

先祖から続く、壮大な人類史という「長編小説」の一節を書いているのだ。

私の父は貧しい家庭に生まれ、マイナスからのスタートではあったが、苦しいながらも、兄弟3人とも苦学して国立大学に行き、皆公務員になった。

その長男の子として生まれた私は、平均的な家庭の子として、世間一般で言う、いい大学、いい会社に入り、そして、独立して、何不自由なく家族と暮らせている。

私の人生だけを切り取れば、大きな苦労もなく、平凡だけど幸せな人生だったよね、ということになる。

しかし、父の人生からつなぎ合わせた時、苦労した時代を経て、今やっと幸せを掴んだということになるのだ。

もしあなたが、自分の親や、祖父母や、祖先に思いを馳せなければ、あなたの人生はただの短編小説で終わってしまう。そこだけ読めば、平凡だけどいい人生だったねと。

そこには面白みはあるかもしれないが、よほどの偉人でない限り、深みは感じられない。

しかし、歴史を紐解き、自分の祖先が生きたであろう時代を想像し、身近に生きた祖先である、祖父母や両親の人生と重ね合わせて自分の人生を捉えた時、それは、とても深みのある、単体では醸し出せないほどの色を帯びてくる。

山田太郎君は、太郎君の人生を生きているのではなく、祖先から続く山田家人生物語の「太郎君の節」を生きているのだと。

もし、生きる意味を見失ったら、親の人生なども聞いてみるといいかもしれない。長い文脈の中であなたの人生を捉えなおすと、新たな気付きも生まれるかもしれない。

あなたは、自分の人生の脚本家であり、主演俳優である。

どうせ描くなら、幸せなストーリーを描き、それを実行した方が幸せじゃないだろうか。

平凡で安定した物語にも、波乱万丈な物語にも、意味を与えるのは、他の誰でもない、あなた自身なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?