宿り木
◆ 宿り木
「妖精の宿り木をご存知ですか」
酔った私を揺り起こしたのは、何者かのそんな言葉であった。
酒の一、二杯目までは覚えている。それ以上は呑んだかどうかすらもわからない。旅の途中で立ち寄った酒場で、私は疲れからか酩酊していた。その日の酔いはあまり気持ちの良いものではなかった。変に意識は冴えていたし、胃が重かった。
気だるさにもたげていた頭を持ち上げてみれば、私が入ってきた頃にくらべ、店は随分と賑わいを見せるようになっていた。気づかぬうちに相当時間が経っていたらしい。宵は深まり、仕事を終えた労働者と思しき汚れたツナギ姿の男たちが、歓声とも怒号ともつかぬ大声を張り上げながら、ジョッキを叩きつけあっている。
「妖精の宿り木をご存知ですか」
そんな喧騒の中でも、その声はまるで狙いすましたかのように私の耳へと飛び込んでくる。
注意深くあたりを見回してみると、私の意識がはっきりしていた頃には見かけなかったダーク・グレーのローブを身にまとった小柄な男が、幾分か離れた席の老人に話しかけている様が目に止まった。
私の位置からでは、フードを目深に被った男の顔までは見えない。彼は一人でちびちびと酒をやっている老人の前に立って、前述のようなことを訊ねたのだった。
「いや―― 知らんな」
やや間を置いて、老人はそう応えた。
老人の瞳はすぼまり、細かな字を懸命に読みこんでいるかのような表情になった。
「左様でございますか。ありがとうございます」
男はすげなく扱われたにも拘らず、ごく明るい調子で礼を言うと、テーブルの上になにか小さなものを置いて去っていった。老人は小さく鼻を鳴らすような仕草をすると、その「何か」をゴツゴツとした大きな手で覆い隠すようにして掴むと、自分の体へと引き寄せた。
「ヘンドリックだ」
奇妙なやり取りをぼんやりと眺めていると、隣のテーブルの二人連れの客が、うわさ話を始めた。
「ヘンドリックのやつが来たぞ。今日も八時ちょうどだ」
どうやらローブの男―― ヘンドリックという名前らしい―― がこの酒場を訪れるのは、そう珍しい出来事ではないようだ。
だが、私にはそのヘンドリックが、どうも浮世のものだとは思えなかった。
ヘンドリックの未だ少年らしさを残した声音は落ち着き払っていて、しかしこの場の誰よりもはっきりと空気を震わせているように思われた。私はいつの間にか、彼の声に聞き耳を立てていた。
「妖精の宿り木をご存知ですか」
ヘンドリックの行動は、ごく単調であった。
酒場のテーブルを順繰りに巡り、まったく同じことを訊ねるのである。
質問を受けた男たちは訝り、不機嫌を露わにし、あるいは微笑を湛え、それぞれの反応を見せながら、しかしこれまたまったく同じ返答をするのである。すなわち、「そんなものは知らない」と。
酒場の男たちは、ごく少数を除いてヘンドリックを歓迎しているふうではなかった。それはそうだろう。気持よく酒を飲んでいる時に、横から突然意味のわからないことを訊ねてこられたのでは、気分がそがれてしまう。
中には明らかにぞんざいな扱いをするものがあったが、ヘンドリックは大して気にする様子もなく、ただ礼を言って、そのたび人数分の「何か」を机の上に置いた。
ヘンドリックが私の席へと近づきつつあったとき、私はようやくその「何か」の正体を知ることが出来た。
硬貨であった。それほど価値のあるものではない。この酒場で安酒を二杯頼めばなくなってしまうような金額だ。しかし、それでもここに集う労働者にとっては意味のあるものだ。彼らはヘンドリックのちょっとした邪魔立てを許容することによって、酒二杯分、仲間と語らう時間を得ることができる。ごく陽気な調子でヘンドリックを迎えていたものが居たのは、そういうわけであったのだ。
「妖精の宿り木はご存知ですか」
さて、どうしようか。
ヘンドリックの明るい声が近づくにつれ、私は考えこむようになっていた。ヘンドリックの質問に対して、これまで「知っている」と応えた人間はただの一人も居ない。この調子なら、おそらく最後まで現れることはないだろう。
私は普段、それなりに利口であるはずだったが、酒が感情の"たが"を少しだけ持ち上げていた。見知らぬ土地で疲れ果てているはずの私の心は、いつの間にか危険な好奇心で満たされていた。
無論、私は妖精の宿り木など知らぬ。しかし、人々が「知らぬ」と応えるたび、私の好奇心はより強く大きくなっていった。
――どうにかしてその、妖精の宿り木というのがなんであるのか知ることは出来ないだろうか。
普段は計算ごとでいっぱいのあたまに、その考えばかりが注ぎこまれていた。
やがて、大方の予想通りに、ヘンドリックは私のテーブルにもやってきた。
間近で見たその顔は、やはり少年と青年のちょうど中間といった具合で、しみもなく綺麗な素肌、青い瞳を持っており、たくましいやいさましいという言葉よりかは、美しいという褒め言葉がよく似合うような容貌であった。
「妖精の宿り木をご存知ですか」
ヘンドリックは私の目を覗き込むと、ほほ笑みを浮かべてそう訊ねてきた。
目の前の男は確実に現実に存在しているはずだったが、なんだか夢を見ているような気分である。
私はどう応えてよいものか、迷っていた。「それはなんだ」と逆に尋ね返してみれば、教えてくれるのだろうか――? あるいはわざと「知っている」と応えたならば、妖精の宿り木がどんなものであるかを知ることができるかもしれない。
おそらく私は、この日この場に居合わせたものの中で、最も長く沈黙していたことだろう。異国で遭遇した謎を突き止めんとする好奇心は何度も喉元までせりあがってきたが、結局私は首を横に振った。
急に喉の渇きを感じたのだ。
それは言い訳か、あるいは最後の理性が働いたためか。
わたしはゴクリと喉を鳴らして、
「聞いたことはないな」
とだけ口にした。その声は、自分のものではないと思われるほどにひきつった、低いものだった。
「なるほど、結構です。ありがとうございました」
ヘンドリックは今までと少し違う言葉を口にし、絵画の中の天使もかくやというほどの微笑を浮かべると、他の人間にそうしたようにごくありふれた硬貨をテーブルの上へと置き、人差し指で私に向かって押し出した。
ぶかぶかの袖に隠れて見えなかった指が顕になる。細く長い女のような指には、宝石のあしらわれた指輪がいくつも嵌められていた。下品とさえ思われるようなそれらは、飾り気のない骨のようなヘンドリックの指には、不思議とよく似合っていた。
私はヘンドリックを見た。彼はすでに私のことを見ていなかった。
「ああ、知らん。知らんとも」
隣の男たちは、ヘンドリックが質問をする前に、乱暴にそう言い放った。
「左様でございますか。ありがとうございます」
やはりヘンドリックにとって、客の態度は関係がないらしい。彼は隣の席の男たちにも硬貨を贈ると、また別の席へと向かった。
私はヘンドリックを見つめ続けた。この場において、私ほど彼を気にしている人間はおそらく居ないであろう。そう思った。しかし、彼の行動を注意深く観察していたのは、私だけではなかったのだ。
ヘンドリックが店の最奥の席へとたどり着いた。一人がけのテーブルでは、商人風の恰幅の良い大男がヘンドリックを待ち構えていた。
男も異国の人間であるらしい。団子のような鼻は真っ赤に染まっていて、相応の深酒をしたと見える。何かあくどい魂胆を秘めていることを隠しもしない口元には、いやらしい笑みが浮かんでいた。
「妖精の宿り木をご存知ですか」
「ああ、知っている。知っているとも」
大男は、少しも迷わずにそう応えた。あまりに迷いがなかったものだから、本当に彼は妖精の宿り木がなんであるかを知っていたのかもしれないが、真偽の程は定かではない。いずれにしろニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべたまま、彼はヘンドリックの華奢な肩に厚ぼったい手を置いた。
ヘンドリックは何も言わなかった。彼はどんな顔をしているのだろう。不快には思わないのだろうか。――そんなことを考えながら見守っていると、ヘンドリックは自ら大男に体を寄せ、耳元で何かを囁くような仕草をした。
それだけだ。それだけのことで、酔に赤く染まっていた男の顔面は喜色に染まり上がり、
「なるほど、なるほど!」
と耳障りな声が酒場じゅうに響き渡るほどの声量で叫んだ。
一瞬のうちだけ、酒場の空気一変した。
誰もが大男を見、すぐに目をそらした。次の瞬間には、酒場は元の喧騒に包まれていた。
私はその様子に大いにうろたえ、乱れ暴れだした心臓が飛び出していかぬように口を閉じておくことで精一杯だった。
ヘンドリックは喜ぶ大男に向かって恭しく手を差し出す。同じ特徴のものがひとつとない指輪に彩られた繊細な手が、重ねられた男の手をとる。冗談のような光景だった。
ヘンドリックに導かれるまま立ち上がった大男は、まるで周囲のことなど見えていないかのように振る舞った。彼は確かに、幸福の光りに包まれているかのように見えた。
誰もその異常な光景に対して、何も行動を起こさなかった。人々の多くはそれが「なんでもないこと」のように振る舞い、あとのごく少数は見て見ぬふりをしていた。店主に至っては穏やかな笑みを浮かべ、
「まいど、どうも」
去りゆくヘンドリックと大男に頭を下げるような始末だった。
ヘンドリックが店から出ていったあと、私はしばらくヘンドリックが寄越した硬貨を眺めて過ごした。
なんのへんてつもない硬貨。果たして他のものに習った私の言葉に、この硬貨ほどの価値があったのだろうか。今となってはとりとめもないことを夢中になって考えていると、隣の席の男のうち、痩せてくたびれたほうの男が、ヘンドリックと商人風の大男が消えたあとの入り口を睨め付け、こんなことを言った。
「かわいそうに。やっこさんはもう、二度とここには来ないだろうな」
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